日本の自然主義は意外と道徳的なのではという説
※ただの突飛な思いつきなので正確な記事ではない
日本の自然主義といえば、島崎藤村の『破戒』(未読)から田山花袋の『蒲団』などによって、現実をありのままに描く風潮から「自己の醜い部分の告白(性欲の吐露)」の方向へ確立したとされる(日本文学史概観(近現代))。
田山花袋の『少女病』と『蒲団』をすでに読んでいるが、主人公は恋の相手の少女に対し、強い変態性欲を抱いているものの、痴漢や不倫やレ○プ、夜這いなどをして一線を超えることはない。
しかし人によっては性欲の吐露という時点でもう気持ち悪いという感想を抱くかもしれない。
『蒲団』に関しては、主人公(既婚者)は恋を抱いている少女の文学の師であり、また恋に燃える若い男女の恋を監督・応援する役割を担っており、表面的に見れば道徳的な師である(内面は性欲で薄汚れている)。
『少女病』では、主人公(既婚者)は少女の観察やストーキングを趣味としている変態であり、人によってはこの時点で道徳的にアウトとみなすかもしれないが、最後は美少女にうっとりしていたせいで、箱詰めの電車に急停止したはずみで乗客に押し倒されて線路に落ち、轢死してしまうのである。
つまり非道徳的な行いをしていた主人公が悲惨な最期を遂げるという結末になっている。
夏目漱石の『それから』では(日本の自然主義文学ではない)、上記とむしろ逆で、親友と結婚してしまった恋する人を略奪するのだった。
つまり、日本の自然主義は性欲などの内面の醜い部分の告白はするものの、表面上は意外と非道徳的な文学ではないのかもしれない。と思った。(2023/02/24)