人生の不公平を受け入れる
たとえば、初めての環境である親との出会いの不幸が複利で増えていくと、生涯の最後にはどのくらい不幸になっているだろうか。
人生を不幸というラインからスタートする人は、まずその「事の重大さ」を受けいれることである。
そういう運命のもとに生まれた人は、並大抵の決断では人生をまともには生き抜けない。
多くの人はその決意が甘いから、次から次へと起こってくる人生のトラブルの処理が甘くなる。次々と予測が食い違ってくる。
事の大きさに理解していないと人生観が甘くなる。努力すれば何とかなる、頑張れば人生は開けるなど、甘えた人生観になる。
不幸な環境から出発しなければならない人はこの人生観では生きていられない。すぐに躓くことになる。
不公平が辛いのは、愛を求めているから。
不公平は誰にとっても同じように辛いわけではない。不公平は、愛されて育っていない人にとってはことさら辛い。
カレン・ホルナイは、自己蔑視することの心理的結果として、他人と自分を強迫的に比較する、といっている。 愛されて育っていれば、自我の確立があり、自分は自分、人は人と思っている。そこで他人と自分を比較する必要がない。
しかし、自我の確立がない人は、強迫的に他人と自分を比較する。燃え尽きるまで頑張る人もいれば、ひねくれる人もいる。
何よりも自分の過去を受けいれること。それが決断であり、人生最大の業績である。
どういう親を持つか、どういう人間関係のなかで育つかはその人の責任ではない。しかし、それを自分の運命として受けいれないのは、その人の責任である。
また私たちは、まず自分の今の(ストレスに弱い)脳の状態を受けいれなければならない。それが新しい出発の第一歩であり、脳を変えるためには、今の自分を正直に認め、今の自分を知ることである。
自分の運命を受けいれて行動すること。そこに新しい自分を発見するかもしれない。
運命を受けいれようとするときに、運命のあまりにも巨大な姿に圧倒される。自分にはこの運命を受けいれるのは無理だと思う。
>自分の人生が悲しくて悲しくて、胸が張り裂けそうになる。何度自分はこの人生の辛さに耐えたのか、そう思うと悲しさで崩れ落ちそうな気持ちになる。(中略)
>愛されて育っていない人は、辛さに耐える能力がないのに、普通の人以上に負担の多い人生になる。
> 能力がないのに、頑張るだけで生きてきた。だから、「生まれてから辛いことばっかりだったなー」と思うときに、悲しさがこみあげてくる。
>何度「覚悟」をしても、「それにしてもなんでオレだけが」という気持ちが、繰り返し心のなかに湧いてくる。「なんでオレの人生だけが、こんなに辛いことばかりなのだ」と繰り返し思う。
しかし、受けいれなければもっと悲惨なことになる。
運命は避けられない。運命は自分の方から進んで受けいれることでしか、生きる方法はない。
自分から積極的に運命に立ち向かうしか、人生の難問は解決しない。