アープラは衝突可能性を内包する
議論がしたい人もいれば、雑談がしたい人もおり、VCがしたい人もいれば、テキストでやりとりがしたい人もいて、さらには議論や雑談の認識も個々のユーザーによって異なる。
そして骨丸さんはカオス、混沌とした場を志向している。 そう思った経緯
初期の頃に数回、骨丸さんに議論志向でいくのか、雑談志向でいくのか、はっきりさせるべきだというようなことを言ったことがある。その度にスルーされてしまったが、結局、骨丸さんはカオスを目指していたのだと今では認識している。
コーヒー自体、混沌としている。苦さを緩和させるべく、甘い砂糖を入れ、黒色を緩和させるかのように白いミルクを入れる。そうしてできたコーヒーは茶色く甘苦さが感じられる。相反する要素が混在している。コーヒーはカオスの象徴である。そんなことはどうでもいい。
カオスを志向するとは
仮に骨丸さんがカオスを志向していると仮定する。そしてカオスを志向するとは、衝突可能性を内包することに他ならない。
雑談がしたい人たちは議論をしている人たちを相手にしたくないと思っているかもしれず、逆もまた然りかもしれない。
アープラはルールの緩い自由度の高いサーバーであるということ。
これもまた衝突可能性を内包している一例だと思う。禁則事項しかない。行動規範は規範であって規約ではない。
衝突する可能性があるのは議論の場であることが多いが、アープラには議論上における様式セットのようなものがない。
今までそういうものがあった方がよいとは度々言われていたように記憶している。
衝突可能性を回避するために
集団のバランスを保つために、集団内に決定的亀裂、決定的分離、決定的断絶が生じないような知恵を、集団内に保つべきだ。その知恵は倫理や礼儀などと呼ばれる。 そのためには上述したような議論のルールセットを運営は用意した方がよいのかもしれない。
このページを作った意図
自分はコミュニティは参加者が作るものだと考えており、運営の基本的な役割は荒らしの排除と場の提供だけでよいと考えていた(コミュニティ運営は基本的に自由放任主義でいい)。しかし最近、考えが揺らぎつつある。いつまでも答えの出ない問いなのだろう。 アープラは今までカオスを志向して、あまりルールや規範すら設けずにここまできた。そう考えることによって、逆にそれを維持し続けるという方向性が見えてくる。
よって、久住さんのブロック推奨不要説への返答というか、同じ意見かもしれないけれど、ブロック機能関連について運営は何の公式見解も打ち出さないという方向性がある。議論の様式セットもあえて用意しない。カオスのまま突っ走る。そういう方向性がある。