コーヒーハウスのようなアープラ
ここらへんの願いが、「100点を求めない」とか、「能無しの批判屋にならないこと」みたいな条へと具体化しているのだろうと考える久住哲.icon 極右と極左が休戦することは一時的といえど、なさそうなことです。特に意見の正しさを争うときには、不可能だと言っていいくらいです。この不可能に思えることを理想としている。
意見を一方的に主張することや、お互いを批判しあうことは、他の場所でいくらでもできる。しかし、ここ(アープラ)は他とは違うものであってほしい。もしも会長がそう思っているのだとしたら、当然ここはそうあってもいいはずだ。 「休戦/対話/調停/止揚の場所」の反対は何だろうか?「開戦/討論/分裂/忘却の場所」だろう。
店内の雰囲気作りにも心を砕いたことは、壁に貼り出されていた利用規則を見ればわかる。身分にかかわらず誰でも歓迎。他人を口汚い言葉で罵ったりしないこと。賭博は禁止。大声での議論を慎み、静かに語り合うべし。現代のコーヒーハウスにも通じる、紳士的なマナーを客たちに求めたのだ。(英国紳士を虜にした、コーヒーハウスの近代史。より引用) 思想・哲学・文学・芸術の会をどのような場所とイメージするかと考えたとき、「飲み物も食べ物も出ないコーヒーハウス」としたならば、どう管理運営すべきかな。 変な人を追い出すというのは、重要なことだろうなと思う。「他の客の迷惑になりますので、お引き取りください。」ということだ。それ以外では「利用規則」を書いて貼り出すのは大事だ。あとは、くつろげる快適な環境をつくるのも大事。
アープラとは何かというイメージみたいなものは、大事だ。「アープラはコーヒーハウスみたいなものです」と、言えるような分かりやすいコンセプト。
例えば、Scrapboxを骨丸さんは「相互編集したり有機的に記事が繋がったりしている巨大共同Blog」と特徴づけていた。彼はScrapboxを言語化するのに「ブログ」という具体的なものを使っていた。そういう、私たちがすでに概念を得ているもので語られなければ、私たちはイメージできない。「Wikipedia」というのもまた一つのモデルだ。俺は「ノート」かなと思っている。
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なので久住哲.iconはアープラを「議論する場」だとは思っていない。