『積読こそ完全な読書術である』の要旨(く)
積読は後ろめたい。なぜ後ろめたいのかと言えば、それは書物自体が帯びている期待、「いつか誰かに読まれるはずだ」という期待にすぐに自分が応えることができないから。 情報が濁流のように押し寄せ続け、次から次へと新しいものが浮かび上がっては過ぎ去っていく状況では、この後ろめたさは耐えがたいほどの苦しみを人々に与えている。
そんな無類の「後ろめたさ」に苛まれながら読書をすることは避けられない。
しかし、そのような後ろめたさに負けて、とにかく目の前の本の期待に応える(他律的読書)というのでは、情報の濁流に飲まれ、ただ流されていることになるのではないか。
私たちは社会で進行しているコンテンツ産業、メディア産業が生んだ積読環境(他律的積読環境)に抗って、「自分なりの積読環境」を構築・運営し、自律的な読書をするべきじゃないのか。
積読環境のなかに積読環境を作る、それも「自分のための」積読環境を作る。無秩序に増大していく他律的な積読環境から、ある程度の独立性を持って自前の積読環境を自律的に働かせるということです。
(中略)
本書で提案するのは、積読のための積読、積読のための読書ですが、それはすべてこの「他律的な積読環境のなかに、自律的な積読環境を作る」ためのものです。
本書の読者は、この世界を他律的な積読環境として認識し、その他律的な積読環境に抵抗する自律的な積読環境を作るためにこそ積読(積読のための積読)をし、またそのための読書(積読のための読書)をするのだと考えるようになってほしいのです。
本書では、このような情報の濁流の中に自律的に構築される「積読」のことを「ビオトープ的積読環境」と呼んでいる。
「ビオトープ(biotope)」とは、生き物たちが暮らす環境のこと。 小学校の校庭の片隅にあった人工の池をイメージすると分かりやすい。
貴重な蔵書を傷むに任せ、生活空間の清掃もできず不潔な環境でアルコールに依存する田中の父親はセルフネグレクトの状態にあったと考えられる。 この例のように、外部の情報が氾濫する他律的積読環境において、私たちはセルフネグレクトへと誘われている。
人類はいつでも読み切ることができないほどの量の情報を生み出し、その濁流への対処を迫られてきたのです。技術の発展とともに、対処法も発達してきましたが、それを上回る加速度で情報は増え続けてきたし、また今後もさらに増え続けていくでしょう。情報の濁流はゆっくりと本を読むための時間を奪い、闇雲な積読へと人々を誘います。誘われるままに情報に身をさらしているうちに、人は自己肯定感を養う機会を逃し、セルフネグレクトの状態に陥る可能性があります。
情報の濁流の時代は、様々な誘惑によって、この自分で肯定できる何かを構築しづらくなっている時代。
逆に、情報の濁流のなかで自己肯定感を得るためには、自分なりの方向性を持ってビオトープ的な積読環境を構築し、それを新陳代謝させるしか方法はない。
自己を肯定するためには、筋トレで美しい身体を構築したり、スキンケアで美しい外見を得るように、自己として自分で肯定できる何かを構築する必要がある。
ビオトープ的な積読環境は、読者を混沌の中で混乱させる情報の濁流のただなかに、自己を肯定するための足場を提供することになる。
ビオトープ的な積読環境の構築こそがスロー思考であると考え、自分のための文化資本を蓄積することによって、情報の濁流にかき消されない「自己の輪郭」を作る必要があるのではないでしょうか。