「才能」と「向いている」
個人的には昔から「才能」という言葉があまり好きじゃない。 中島義道が自著で「才能があるかないかは結果論で表出したときにはじめて『才能がある』かが分かる」みたいなことを書いていたが、これは割と同意する。 大勢の他人に提示して初めて分かるものって感じなのかな。偶然、自分の能力以上の結果になってしまった場合も「彼/彼女は才能がある」とみなされるんだろう。逆も然り。
もちろん、才能というものがこの世にあることは否定しない。才能というものはある。それは大谷翔平や藤井聡太とかを見ていると明らかだけど、才能と呼ばれるものが問題になり始めるのは、ある一定の水準以上からだと思う。 学び始めの人に対して才能あるなしは語れない。伸び悩んでいた人が何かきっかけを掴んだ途端、急激に能力が向上する場合だってなくはない。
それに、「才能がある」「才能がない」の二分法で判断してしまうと「そういうもんなのか」と、そこで思考が終わってしまって、才能というものの細部を明らかにすることができなくなってしまう。つまり才能は非常に便利な言葉ゆえにあまり好きじゃない。
それにスポーツにしたって創作にしたって、やり続けているとある程度の域に達する。
仮に才能がなくてもその対象に打ち込み続けることができるなら、中級者レベルくらいの結果は残せるようになる場合が多いだろう。
「才能」と「向いている」は異なる概念だと思う。
「才能」は多くの同業の他人よりも優れた業績を残したり、高い能力を発揮できるということ。
「向いている」というのは対象となっている分野のものをやり続けられるかにかかっていると思う。
例えば、才能がある程度の高い水準以上で初めて問題になるのだとすれば、その水準以前で辞めてしまう場合、彼/彼女に才能があったかは分からないが、少なくとも向いていなかったのだ。
「才能がなくても向いている」ということもあり得る。優れた結果を出す能力はないが、それに打ち込むのは好きでやり続けられるという場合。逆に、「才能があっても向いていない」というのは、他人より優れた結果は出せるけれどもそれに打ち込み続けることが退屈だったり苦痛な場合をいうのだと思う。
いうまでもなく「才能があって向いている」という人がその分野のトップを走り続ける場合が多いのだと思う。すでに『論語』の時代から次のように書かれているのだから。 之を知る者は之を好む者に如かず。 之を好む者は之を楽しむ者に如かず。
(現代語訳)それを知る者は好きな者には勝てない。そして好きな者でもそれ楽しむ者には及ばない。(『論語』雍也第六の十八)