「それは必要なことなのか?」と問う
『自省録』第四巻の二十四。ストア派的な文脈(下記)から逸れたとしても、自分で何らかの目的を設定している人達ならその目的に没入する際に使える名言。 「もし心安らかにすごしたいならば、多くのことをするな」という。こういったほうがよくはないだろうか。「必要なことのみをせよ。また社会的生活を営むべく生まれついた者の理性が要求するところのものをすべてその要求するがままになせ。」なぜならば、これは善い行為をすることからくる安らかさのみならず、少しのことしかしないということからくる安らかさをももたらす。というのは我々のいうことやなすことの大部分は必要事ではないのだから、これを切り捨てればもっと暇ができ、いらいらしなくなるであろう。それゆえにことあるごとに忘れずに自分に問うてみるがよい。「これは不必要なことの一つではなかろうか」と。しかし我々は単に不必要な行為のみならず、不必要な思想をも切捨てなくてはならない。そうすれば余計な行為もひき続いて起ってくる心配はないであろう。
後期ストア派のマルクス・アウレリウスの観点で言えば、引用にある自身への安らかさのためだけでなく、人間は宇宙の一部であり、その個々人それぞれの創られた目的を果たす義務がある。宇宙の自然(から与えられた指導理性)に従って生きていれば自分の創られた目的を果たすことができるのだから快楽にかまけて不必要なことはするなということでもあるようだ(「自分の義務を果たせ」)。 一九 万物はそれぞれある目的のために存在する、馬も、葡萄の樹も。なぜ君は驚くのか。太陽すらいうであろう。「自分はある仕事を果すために生まれた」と。その他の神々も同じこと。では君はなんのために? 快楽のためにこの考えが許容されうるかどうか見よ。(第七巻)
二六 人間の喜びは人間固有の仕事をなすにある。人間固有の仕事とは同胞にたいする親切、感覚の動きにたいする軽、信ずべく見える思想の真偽の鑑別、宇宙の自然およびこれに従って生成する事柄の観照等にある。(第七巻)