2025-03-04 正しく行動したいといつだって思うのだけれど
友人の話を聞きながらぽつぽつと以下をメモ。
私はどちらかといえばハラスメントを受けやすいタイプではあると自分では思っているけれど(受け身体質だし、鈍感なところがあるし、まあまあ我慢強いし、保守的なところがあるし、偏見なくものに接したいから変わった行動や苦いものにも好奇心を惹かれてまずは口に入れてみようというタイプ)、それでも正しいと思い込んだときには強い態度(自分としては毅然とした態度だと思い込んでいるが)をとることもあるし、またはそのつもりがなくても年齢やキャリアによって相手がすでに対等でないと感じている関係を見過ごして物を言ってしまっていることもあるだろうと思うので、ハラスメントを与える/受ける、どちらの立場にも立つかもしれない前提で考えたいと思っている。 人間が複数人集まればそこには関係性が生まれるわけで、どうしてもいわゆる「どっちが上」とか「どちらのほうができない」というような比較が生まれてしまう。そのこと自体はどうも避けられないので(人はみんな違う能力を持っているし、人はどうしても優劣をつけようとしてしまう、優劣をつけようとするとか比較しようとするというようなところから抜け出すための議論もあると思うけどそれはまた別のときに)、その中でどうしたらその偏りが強くなりすぎないのかを考えておくと良い気がする。
それぞれの得意/不得意を知っておくとか、能力による不平等が大きくなりすぎない仕組みとか、必要な能力以外のところでお互いを尊重できる体験を持っておくとか、…
まあそんな取り組みはとっくにされているのだろうから、私がここにまとめるまでもないな。
「ハラスメント」について考えることで(つまりその前段階にはその問題の渦中にいたという体験があったわけだけれど)私自身自立するとはどういうことか、相手を本当の意味で尊重するとはどういうことか、自分を本当の意味で大事にするとはどういうことか、を考えることに結構な時間を割いてきた(ほとんどリハビリみたいに)と思うし、自分なりの答えのようなものに対して少しは前進できているんじゃないかと思う。
「前進」という言葉を使ったのは、「答えが少しは分かってきた」というような頭で得た理解じゃなくて、文字通りぬかるみから片足を引っこ抜いては一歩進み、またずぶずぶと沈んでは這い上がり、というような、とにかく前に進まないと生きておれない(それは精神的にもだけど実際に働いたり関わったりしたりして生きるということのために)という無我夢中なもがきがあったからかもしれない。
実際に自分がハラスメントを受けたという場面もあったし、ハラスメントを受けた人と一緒に考えた場面もあったし、ハラスメントを与えた人の心理を考えたこともあったし、自分の態度はもしかしたらハラスメントと呼ばれるものではなかったかと内省したこともあった。当然、自分とはかけはなれたところでおきたハラスメントのことを考察する機会もたくさんあった。外国にいながら日本の事件について考える機会も。
その「起きたこと」と自分との距離(kmの距離と時間の距離、心理的な距離)がさまざまであったから、それぞれの立場に立ってみることではじめて見える景色もあった。
自分がなかなか手放せなかったことが、"遠い"ハラスメントを通じて客観的に判断できたり、近視眼的な感情から身を引き剥がすことができたりもした。
私にとって大きなきっかけがいくつかあるけれど、それぞれが起きたタイミングが私の気づきにとっては良い結果をもたらしたのだと思う。
まったくの渦中にいるときには冷静に周りを見ることはできなかったし、自分の体験が薄らいだあとならあんな風に熱くつっこんだ部外者になれなかったかもしれない。(または冷静な部外者であれたとしたら私にできたことはより多かったのかもしれないけれど…それは分からない)。失敗もあったし、人も傷つけたし、知らないうちに傷つけているだろうし、認識できている中だけでも思い出すと歯を噛み締めてしまうような後悔もある。その後悔が泥から足を引っこ抜くための原動力になってくれたとも言えるけれど…そんな風に前向きにまとめたくはないくらい、今でも自分が正しく行動できたかどうかは分からない。
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卵白でメレンゲを作るのが手動ではめちゃくちゃ大変だった。これさえなければすごく手軽にできることが分かった。
ちょうどまさにこのレシピと同じラム酒がうちにあった。
コーヒーはエスプレッソにした。その方が濃くて美味しい。