「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」
『年刊SF傑作 虚構機関』収録。
元々は群像新人賞に応募し、二次選考まで通過したものの最終選考には残らなかった作品。
p.7「曽祖父は字送りというものを知らなかった人で,〜」
曽祖父は文字送りが出来ないのですべてのテクストを8文字のうちに書き込んだ。
良寛は書家としても有名。そしてその書の練習をする際、良寛は紙を節約するために、一枚の紙が真っ黒になって何も書けなくなっても同じ紙に書き続けたという。
ある時、良寛の庵を尋ねた人が、良寛が真っ黒な紙に向かって一心不乱に文字を書き続けているところを見かけたらしい。
出典を特定
(前略)余披而覧之、欣然曰、上人禅脱之余、尤好墨戯。余弱年嘗造其草庵、机上石硯禿筆、紙五六十張、皆黒如漆。(後略)
余披いて之を覧、欣然として曰く、上人禅脱の余、尤も墨戯を好む。余弱年なりしとき嘗て草庵に造るに、机上石硯・禿筆・紙五六十張、皆黒きこと漆の如し。
(鈴木文台 著, 阿部家蔵良寛筆蹟横巻序), 東郷豊治 編, 良寛全集 上, 東京創元社, 1959
172頁「ただのDNAの連なりがただの化学物質でしかないように,曽祖父のノートというDNAの,僕は読み手という蛋白質だ.」
一定の配列の上に走る“計算”のモチーフ
同「壁の中にいる。」
Wizは現在のコンピュータRPGの基礎を築いた3つのRPGのうちのひとつ(ほか2つは『Ultima』『Rogue』)。
宝箱の罠としてテレポーターというものがあり、これに引っかかるとマップ上のどこかに転送されてしまう。このメッセージは転送先が壁であった際に表示されるもの。壁の中に転送されてしまうと、パーティは即座に死亡・消滅し、完全にロストする。
174頁「一次元光子の上に無限に並べられた点の数と,平面格子にしきつめられた点の数は厳密な意味で一致する.」
(”無限”が可算無限を指すならば)正しい.
濃度を考えれば自明
176頁「empty = "A"」
(多分)プログラミング言語Rubyによる,"long"を無限回出力したのちに"time ago."と繋げて出力させるプログラム.
Rubyはわからないので,もし違う言語だったら教えてください.
Pyrhon, C++, OCaml, JavaScript, Fractran, Brainf*ck, Whiitespace以外はさっぱりわからないので
砂鯨
180頁「宝玉の来訪と非来訪は〜」
電子によるゼロイチのデジタル通信に違いない,という確信を得られる箇所
183頁「都が砂の波に〜」
想定よりも多くの電子が流入してしまうことは,電子回路が故障したり誤作動することの原因である
一般的には,それは放射線によって半導体内の電子が励起されて自由電子として振る舞うようになることで引き起こされることが多い
一応熱電子が原因の場合もあるが,極低温環境を前提としている回路でないと考えにくい(高温環境では,通常,回路そのものが熱によって損傷することを想定しなければならないため)
涙方程式始末
187頁「涙が方程式に〜」
私は素粒子の研究者だったので,この立場を強力に主張している
188頁「機械支援をうけた定理証明自体はさして珍しいことではないが,〜」
四色定理:平面グラフは4色で彩色可能である
奇数位数定理:奇数位数の有限群は可解である
これらの定理の主張は極めて明快かつ簡単だが,その証明は至難を極め,機械支援を受けなければ人が扱えるようなものではない
奇数位数定理はその主張の明快さに対して異常に長大かつ複雑な証明をもち,かつ数学的に極めて興味深く重要であることで非常に有名
また,(ある分野では)機械支援を受けた数学はさして珍しいことではない,というのは事実.私の友人がまさにCoqを常用しているタイプの数学者であり,私自身もCoqを教わっているところ.
私も機械支援を受けた物理学をやっていた人間だし……
同「要するに,笑いすぎて死に至った.」
190頁「ところで,活字を見て〜」
これは本当に不思議
同「灰色の脳細胞」
同「エネルギー収支をどこで追えばよいのかよくわからない.」
これはマジでそう.
192頁「ほどなく彼らは,抽象関係を文字や映像に混入して流通させることに成功する」
まあ効果はないとされているのだが
祖母祖父祖母祖父をなす四つの断章
195頁「「」
196頁「は,今日も相変わらず「手を伸ば」し続けている.」
同「何故わかるように話さないの.」
主体-客体の単純な転倒がすべて成り立つわけではない
量化子が導入された文章の主体-客体関係を転倒すると破綻するのはフレーゲによる発見である
199頁「この過程は,少なくとも仮想的には無限回反復しうる.」
紐虫をめぐる奇妙な性質
DNAという物質として記録され,その記録を元に合成されるタンパク質が集まることによって構成される生体,そして生体の上を走る生命
DNAの上を走る遺伝子というレイヤーもある
205頁「かなりのところ我慢強い.」
地上最強の生物として有名なクマムシに由来するか
単純な生物が頑健な例としては,プラナリアが挙げられる
208頁「鉛製のパンツ」
実用品です(実体験)
208-209頁「直感がそれを否定しようとも,その場合は直感側が間違っているということで,〜」
激しく同意.
209頁「ヤン=ミルズ多様体」
ヤン-ミルズ理論,ヤン-ミルズゲージ理論,ではない何か
名前だけ借りた造語か?
211頁「ホイーラー・ファインマン吸収体理論」
実在の理論.
物理学的な説明は文中にある通り
ちなみに,これはファインマンさんの卒論の題材となった
212頁「一体の観測者もいない場合に,星は輝くことさえできないことを示唆する〜」
円城塔作品の本質に触れている文章だと思う
小説は読まれて初めてそこに存在する=読まれなければ存在しないも同然である
これで終わっていたら,どこにでもある(不十分な理解に基づいた)量子論
つまり,他者と相互作用することがなく,外界から全く断絶されて完全に独立であるならば,どんなとんでもないことが起こることも許される
事象の地平線の先では何でも許されるのと同じ(物理学が破綻しており,かつ特異点の内部情報は量子情報的にも独立であるため)
Es würde die Sonne nicht strahlen; falls sie allein im Weltall vorhanden wäre und keine anderen Körper ihre Strahlung absorbieren könnten. (Hugo Tetrode, Über den Wirkungszusammenhang der Welt. Eine Erweiterung der klassischen Dynamik, Zeitschrift für Physik, 10, 317-328, 1922)
宇宙にただ一つだけ太陽が存在し,他の天体がその輻射を受け取れないならば,太陽は輝かない.(下村訳)
「何もない空間に孤立した原子は,実は輻射を起こさない.輻射は他の原子(すなわち,輻射を吸収する物質の中のもの)との相互作用の帰結である.すると量子力学での原子の自発放出もまた自発的ではなくて,他の原子に誘発されたものであるかもしれない.さらに光の見かけ上の量子的な特性すべてと光子の存在は,物質同士が直接量子力学の法則に従って相互作用することの結果に過ぎないかもしれない.」(ファインマン, 量子力学における最小作用の原理(学位請求論文), ファインマン経路積分の発見, 岩波書店)
ホイーラー-ファインマン吸収体理論では,その輻射を感じる自分以外の観測者がその空間にいないのならば,その輻射の発信源がその輻射を発することはそもそもない,と帰結される
(いわゆる)量子力学の観測者問題に近い結論だが,そもそもWF吸収体理論には量子力学を要請していないことに注意せよ.上記の帰結は,古典電磁気学を適当に解釈することで得られる
なお,WF理論は,量子力学に電磁場を導入した拡張理論である,量子電磁気学における困難(もし電荷が自身の作る電磁場と相互作用するなら,点電荷の質量は無限大でなければならない)を解決するために構築された理論である
これを回避するためには,電荷の質量を考えてはならないとするか,荷電粒子は全て空間的に広がっていなければならない.
前者は量子力学そのもので,後者は相対論で即座に否定されるため,どちらの解決法も認め難い
そこで,ファインマンさんは,そもそも電荷は自己相互作用しないのでは,との考察を学部生時代に行い,指導教官のホイーラーとともに卒業論文にまとめた.
(余談)ファインマンさんは大天才だが,同い年でファインマンさんと同年に同じ業績でノーベル物理学賞を受賞したジュリアン・シュウィンガーは,ファインマンさんが学部を卒業するタイミングで博士号を受けており,しかも査読論文を既に15本も通していた.上には上がいるものである.
(超余談)ホイーラー-ファインマン吸収体理論が出てくるSFとしては他にダリル・グレゴリイの"Dead Horse Point"(未訳)があり,ジュリアという登場人物はこのジュリアン・シュウィンガーからもじったものなのでは,と思っている WF理論は,完全吸収境界条件を設定し,遅延ポテンシャルと先進ポテンシャルを完全に対等に扱った理論を構築したが,その帰結は遅延ポテンシャルのみを扱う一般の古典電磁気学と一致した.(中村哲・須藤彰三, 電磁気学, 朝倉書店)
遅延ポテンシャルは未来に進む波を,先進ポテンシャルは未来から来る波を表すが,このうち未来からやってくる電磁波という存在は因果律を破っているとして,物理学的に意味のある解ではないとして棄却してよい場合がある.
その場合とは,電荷密度,電流密度の存在範囲が限られていて,境界面を無限遠方に取った場合である.
ここでは,境界面の外からのエネルギーの流入が先進ポテンシャル,流出が遅延ポテンシャルに対応しており,無限遠方からエネルギーが流入してくる状況はを排除することは自然に正当化される.
そもそも,先進ポテンシャルと遅延ポテンシャルはダランベール方程式の特解なので,一般解は特解の線型結合で得られるのだが,このうち先進ポテンシャルは因果律を破り,未来から発射されて過去に到達する電磁波の存在を示す.したがって因果律から先進ポテンシャルを退け,遅延ポテンシャルをそのまま一般解として扱うと良い.
しかし,これは時間対称性を破る.時間対称な理論はないか,ということで先進ポテンシャルと遅延ポテンシャルの両方を許そう,その代わり吸収体というものを仮定しよう,というのがWF吸収体理論
実際に計算し,一般解として1/2先進ポテンシャルと1/2遅延ポテンシャルの線型結合を用いた場合と,遅延ポテンシャルのみを用いた場合で結果が常に一致することを確かめた
この業績が,のちの量子電磁気学の完成(くりこみ)につながっていく
ここにおける星は,観測者がいなければ存在しなくなってしまう紐虫と同根
WF吸収体理論に関する参考文献
中村哲, 須藤彰三, 電磁気学, 朝倉書店
学部時代に買って持ってた本,教科書ではないけど途中計算が詳しくてありがたかった記憶
砂川重信, 理論電磁気学 第3版, 紀伊国屋書店
定番の名著
ファインマン, ご冗談でしょう,ファインマンさん, 岩波書店, 岩波現代文庫
超有名作品.「モンスター・マインド」という恐ろしいエッセイに登場する
ファインマン, 物理学はいかにして発見されたか, 岩波書店, 岩波現代文庫
後半に収められたノーベル賞受賞記念公演に,吸収体理論の簡易な説明がある
当然,詳細な計算結果は載っていないが,専門家でないなら説明はこれで十分じゃないかな
ローリー・ブラウン, ファインマン経路積分の発見, 岩波書店
WF吸収体理論を枕に,ファインマンの博士論文を解説し,経路積分の発見に至るファインマンの思考の過程を辿る
Wheeler and Feynman, Interaction with the absorber as mechanism of radiation, Review of modern physics, 17(2-3), 157-181, 1945
第一報,証明方法が4種類書いてあるが記法が洗練されておらずやや読みにくい
あと脱線と脚注とクソ長脚注が多い
Wheeler and Feynman, Classical electrodynamics in terms of direct interparticle action, Review of modern physics, 21(3), 425-433, 1949
第二報,記法が洗練されてエレガント
ファインマンも連名になっているが,実のところホイーラーの単著らしい(上記ブラウン本より)
Schulman, Formulation and justification of the Wheeler-Feynman absorber theory, Foundations of physics, (10)(11-12), 841-853, 1980
いい感じなレビュー論文のような気がしたが,あとで発見したホイルの方が読みやすかった
Hugo Tetrode, Über den Wirkungszusammenhang der Welt. Eine Erweiterung der klassischen Dynamik, Zeitschrift für Physik, 10, 317-328, 1922
夭折の物理学者,テトローデによる先行研究
ファインマンらしい,受け取る物のいない場所では云々というコメントは,このテトローデのもの
Hoyle and Narlikar, Cosmology and action-at-a-distance electrodynamics, Reviews of modern physics, 67(1), 113-155, 1995
ホイルによるレビュー論文,記法が現代的で洗練されている
Dirac, Classical theory of radiating electrons, Proceedings of the royal society of London, 167(929), 1938
ディラックの先行論文
Feynman, The Feynman lecture on physics, vol. Ⅱ
最初に当たった文献,多少は書かれていたが,これでは不足だった
Schwarzchild, Zur Elektrodynamik Ⅰ. Zwei Formen des Princips der kleinsten Action in der Elektronenttheorie, Nachrichten von der Gesellschaft der Wissenschaften zu Göttingen Mathematsch-Physikalische Klasse, 126-132, 1903
シュヴァルツシルトの論文は多分これ(WF1945は引用頁を間違えている?)
まだ読めてない
Fokker, Ein invarianter Variationssatz für die Bewegung mehrerer elektrischer Massenteilchen, Zeitschift für Physik, 58, 386-393, 1929
Fokker, Wederkeerigheid in de werking van geladen deeltjes, Physica, 9, 33-42, 1929
Fokker, Théorie relativiste de l'interaction de deux particules chargées, Physica, 12, 145-152, 1932
フォッカーの3論文も読めてない
1つめが独語,他は蘭語なので流石にお手上げです
Feynman, The principle of least action in quantum mechanics, 1942
ファインマンさんの博士論文の原文
断絶と一つの解題
213頁「このところ数が数えられなくなってきていて,〜」
もちろん57は合成数であるのだが,グロタンディークが素数というなら素数であり.57をグロタンディーク素数というようになった.
似た語にメルセンヌ素数があるが,こちらはれっきとした素数である
218頁「例えば僕は今,〜」
解説.ありがたい.
縞馬型をした我が父母について
波蘭あるいはアレフに関する記録
228頁「あらゆる数列を〜」
229頁「一九二九年,波蘭の数学者,バナッハとタルスキは〜」
(アレフ1についての有限字数での説明)
230頁「だから,初期入植者が〜」
オーストラリアにおけるカンガルー初発見時のエピソード
同「DNAが全ての生体情報を担っているという単純な誤解〜」
フィードバック機構.
同「暗号化や圧縮を施されたデータは,〜」
231頁「自己増殖という様式が広く受け入れられているが故に,それは進化的にも有利だったのであるという逆転した推理が,自己増殖が進化上有利であるとされる最も強力な論拠である.」
そうなの?
233頁「最も基本的な計算機の原理はやはりテープと読み取り機械の比喩〜」
234頁「そしてまた今回も取り残された人々は,〜」
群盲象を評す
一個体の内部での進化
何かを観測するとき,直接観測できると期待するのは古典的な世界観においてのみ成り立つ妄念にすぎない
何かを観測するとき,その観測は何らかの間接的なものに限られる
白紙の上に配置された黒い線があり,小説はその上で走る
それらはただ配置されているだけでは実行されず,人間によって読まれたときに初めて小説は走る
そもそも,人間の意識というものも,配置された神経ネットワークの上を走るものである
ある同じ集合の要素が配置された配列があり,その配列の上を走るような(抽象化された)計算として,小説を捉えることができる
文字1つ1つを元とする文字の集合があり,それが一定の規則で1次元的に配列されており,その上を走る計算が小説である
また,神経細胞の集まりがあり,神経細胞が神経ネットワークを構成し,その上を走る計算が意識である
配列があるだけでは計算は駆動しない.計算は,外部から駆動させられなければ実行されないだろう.
小説内の人物同士の相互作用も同様の構造であり,ネットワークの上を走る計算同士の相互作用として記述され,またネットワークの合成(人物A+人物B)の上で走る計算同士が計算同士の相互作用を記述するような算術を用意すれば,そのような算術はこの現象を記述する代数を満足する
プログラムの文字列そのものがあるだけじゃ無意味で,実行環境と解釈系がなきゃだめでしょ,というのと同じ話