データに所有権は存在しないのではないか?
データの所有権を得るってのは改めて違うんじゃないかと思う 統治二論を読んでいる時に思ったYudai.icon Cryptoの文脈で所有出来るって言葉がよく出てくるがもやっとすることが多かったが、以前よりもやっとが言語化できるような気がする 「全ての統治は絶対王政であること。」
「いかなる人間も自由に生まれついていないということ」
と述べている。
ジョン・ロックはこれについて、サーロバートと同じく聖書を引用しながら否定していくが今回はその部分などは省略する これは、
とデータを捉えているのと同じだといえる
飛躍しすぎている?Yudai.icon
統治と所有をサーロバートは同じものとして語っていたものをロックによって分離された 後にそれについては書く
「統治技術の基礎と原理とは必然的に所有権の起源に依存する」
「両親に対する子どもたちの従属はすべての王の権威の源泉である」
重要なのがデータに対する信用]
企業側でユーザーのデータを制御することによりデータへの信用を得ている
ユーザー側がデータに対して編集(削除や追加などの改ざん)が行えない
企業側がデータを改ざんする可能性があるのは「公開」するタイミング。
データの信用 = データが正当である= 「真」である
自分は検証可能にする必要があると考えているYudai.icon
これはプラットフォームや企業側がユーザーにデータを戻すことで真正性が無くなると思うから データの所有権を戻したい、戻す必要があると考えているわけではない事が分かった。
僕は所有権を取り戻すのではなく、意思を反映させるための権利を取り戻す事が目的なのかも
データは投票権に近い存在になる可能性がある
所有権という考え方だと個人に焦点が当たっているが統治として捉えないといけない でもこれって何にでも言えるような気がする?
この部分もっと言語化できそう
深めて追加していくYudai.icon
書いた
元々ロックが語っていた所有権と現在の使われ方が違うだけで、所有権は適用されている
正しい所有権の使い方に戻すYudai.icon