ガチャの倫理
Podcast Ready.icon
水平線.icon
「実力」が問われる戦略ゲームでは、「運」の要素は嫌われがちです。 とはいえ、ユーロゲームの特徴の1つとして次のように説明される。 運と技術の両方が適度に必要。
単純なすごろくのように運だけによるゲームはほとんどない。 従って、初心者や子供でも勝つことができつつも、習熟することにより勝ちやすくなるという上達の要素も排除されない。
この運の要素について、日本では、ガチャという語でも語られます。 カードのドローやダイスロールなど偶然性のメカニクスを緩く指すフレーズです。 カプセルトイやソシャゲのアイテム購入システムの意味とは微妙に異なる使い方です。
このガチャ要素、現代社会の「実力」主義のあり方を問い直す重要な倫理的装置として機能しているのではないか。
実力主義というとき、現代には二種類が実力(merit)主義があります。
メリトクラシー meritocracy
客観的な基準に基づくもの。
マークシート型の試験は純粋に知識に対して、ある基準に値する(merit)か?を測る。
ハイパーは、(スーパーのさらに上、みたいな意味ではなくて)病的なといったニュアンス。
コミュニケーション力、人間力、生きる力、意欲など
記述試験においてその字の美しさを、あるいは、面談ならばその立ち居振る舞いを、ある基準に(評価者が無意識でも)値する(merit)か?を測る。
囲碁や将棋のような、運の要素を極限まで排した「純粋な実力ゲーム」は、一見すると伝統的メリトクラシーを体現する、最も公正な競争に見えるかもしれません。
しかし、その過酷なまでの実力主義は、皮肉にもハイパーメリトクラシー的な言説を呼び込みやすい構造をもちます。
敗者は、自らの実力不足という厳しい現実から逃れるため、「今回は楽しむことが目的だったから」といった「意欲」の問題や、「相手との相性が…」といった「人間関係」の問題に、責任を転嫁することができる。
純粋な実力の世界は、その厳しさゆえに、かえって曖昧な評価軸が密輸入される隙を与えてしまうということ。
ガチャというメカニクスがボードゲームに介入するとき、何が起こっているのか。
「ガチャ」は、誰の目にも明らかな、非人格的で、客観的な偶然性をゲームに導入する。 なお、もちろん期待値など確率計算する能力(実力)は必要だが、2D6において1-1が出る可能性はいつまでも排除されない。 ダイスの出目や、山札の一番上のカードは、誰かの「コミュ力」や「人間性」によって左右されない。
それは、ただの外部的な事実。
ガチャは、純粋な実力ゲームが陥りがちな「人間性」をめぐる不毛な評価合戦を停止させる。
プレイヤーを「運」の前での平等な存在として扱う。
これはメリトクラシーが目指した「非人格的な公正さ」を、別の形で実現する。
くじ引き民主主義のこと。
「くじ」という非人格的な偶然性によってエリート支配を防ぐことを目指す。
ガチャもまた、「論理的な実力」という名の特定のエリート(例えば、将棋や囲碁が極端に強いプレイヤー)によるゲームの支配を防ぎ、初心者や、直感的なプレイヤーにも勝利の機会を与える。
ガチャは、ゲームの参加資格を、純粋な論理思考の実力から解放し、より多様なプレイヤーに開かれたものにする、ミクロな民主主義的実践。
ガチャは、ボードゲームにおいて、単に刺激的な味付けである、という側面は間違いなくあると思います。
めっちゃ盛り上がりますもんね。
他方、現代社会に深く根付く実力主義神話を相対化しながら、同時に、曖昧で恣意的なな人間力的評価が蔓延するハイパーメリトクラシーへの強力な解毒剤の一つとも言えるのだと思います。
こんど私たちがダイスを振り、カードを引くとき、あるいは盤面の初期配置が決まるとき、そのガチャの中に、より公正で、より豊かな人間関係を可能にするための、ささやかな倫理が宿っていることに、思いを馳せることができるかもしれません。