なぜボ哲は「読む遊び」なのか
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なぜ、このサイト「ボードゲーム哲学(ボ哲)」を遊びと言っているのか? この理由を以下で記します。
各ページは、「ビジネススキルを向上させる」とか「より良いコミュニティを作る」といった、直接的な「有用性」を目的としていません。 もちろん、結果として、あなたのゲーム/遊び体験や日常が豊かになることは心から願っています。しかし、それはあくまで副次的な結果です。
「有用だから、読む/遊ぶ」ではなく、「読んだら/遊んだら、有用だった」なメディア。
すべてのボードゲームがそうであるように、自己充足的な営みとしてのメディア。 アーレントにとっての孤独の確保
ルールが存在し、そして自由
ボ哲は、完全に自由な連想ゲームではないです。ここには、先人たちが築き上げてきた「哲学や人文学というルール」が存在します。
たとえばカントの概念を、功利主義の文脈で語ることはできません。それぞれの言葉には、守るべき定義と文脈があります。 しかしこのルールの制約の中で、私たちの思考は、新たな発見へと向かう自由な遊びを開始することができます。 始まりも終わりもない、言葉の盤面
通常の文章や書籍は、多くの場合、著者によって始まりと終わりが定められ、読むべき順序 order が示された、一つの閉じた世界です。 著者(ボードゲームでいえば、デザイナー)の秩序 order がそこに存在するということ。 他面、このボ哲の空間は、Cosenseを採用しており、通常の文章や書籍と様相が少し異なります。 一つ一つのページは、それ自体で思考の断片として存在します。
しかし、ページ内のリンク(特に青色のリンク)は、あなたを別のページ、別の文脈への道へも誘います。 そこには、定められた道筋はありません。
このページ群を読むという体験が、あたかも「読むボードゲーム」だと思っています。
あるページを読み、あなたの心に浮かんだ思考や問いは、あなただけの「一手」。
別のページへのリンクをクリックし、新たな概念に出会うとき、あなたは盤上の別の場所にコマを進め、あるいは、盤外から現れた新たなプレイヤー(思想家や、別のあなた自身)と遭遇します。
昨日打った「一手」が、今日、まったく異なる意味を持つ一手に映ることさえあるでしょう。
ボ哲には著者である私の思考や嗜好が色濃く反映されています。
しかし、それはゲームマスターの絶対的な声ではありません。
ここには、互いに応答し、継承し、批判し合う、数多の思想家たちの声が響き合っています。
読み手であるあなたもその響き合う声へと参加する1人になるでしょう。
ちょうどボードゲームのデザイナーが、自らの定めた魔法円の中で、自由に遊ぶことをプレイヤーに期待するように。 この「読み遊び」を通じて、思考と感情の大きな盤面を、どんどん拡張していってもらればと思っています。