「デザイナーらしさ」って、どこからくる?
私たちは、森見登美彦の妙な比喩に、あるいは村上春樹の「やれやれ」に、その作家らしさを感じます。テキストでなくとも、今敏の飛び跳ねるようなアニメーションに、宮崎駿の描いたキャラクターの驚き顔に、その作家らしさを読み取ります。 他方、ボードゲームはアートワーク担当が変わり、テーマやシステムも多岐にわたります。
デザイナーの名を伏せられてもし遊んだとしたら、私たちはそのゲームが誰の作品であるか、小説や映像作品などと同じ確信度で言い当てることができるでしょうか…?
ボードゲームで体験できる遊びの「面白さ」には、文化や個人の好みの違いを超えて、多くの人が抗い難く惹きつけられてしまう、ある種の普遍的なパターンが存在するように思えます。 例えば、
最初はバラバラだった各要素を勝利点へとつながるエンジンとして組み上げる快感。 バーストのリスクを冒してでも、もう一枚カードを引くかどうかという緊張感。 自分が得すれば相手も同様に得をするような状況で、最適なバランスポイントを探る葛藤。
などなどなど。
ユングは、人類の無意識の奥底に共通して存在する、神話や夢のイメージの源泉を元型 archetype と呼びました。 例えば、地母神 great mother や、影 shadow などです。
この遊びの「面白さ」も、元型のアナロジーと考えることができるかもしれません。 私たちが集合的に共有する、根源的な心の働きとして、ボードゲームの「面白さの核」を説明できるのだとしたら。
もしそうなのであれば、優れたボードゲームデザイナーとは、この人類共通の「心の琴線」に語りかける、普遍的なアルゴリズムを発見する人、ということになるのでしょう。
この視点に立てば、個々のデザイナーの「個性」とか「作家性」といったものは、普遍性に覆い隠され、見えにくくなるのだと思われます。
しかしまあ、現実はそう単純ではないでしょう。
「面白い!」と感じるゲームのメカニクスは、文化圏やコミュニティによって偏りがありそうです。 例えば:
メンサ会員コミュニティが好むゲームの傾向と、負けたらタブーに触れるような罰ゲームのある集まりの人たちが好んで遊ぶゲームの傾向は異なりそうです。 ドイツのボードゲームシーンでは、プレイヤー間の直接攻撃が少なく、間接的な相互作用を重視するような言説もしばしば囁かれます(まあ、これは多くの例外もあるため本当にそうなのかなんとも言えませんが……)。 実証研究があるわけではないですが、こういった「選好の偏り」はブルデューの言うハビトゥスで説明できそうです。 つまりデザイナーは、普遍的な「面白さ」の核を、特定の共同体がもつハビトゥスに届くような、特殊な文化的形式へと、巧みに「翻訳」しなければならないことになるわけです。 ここに「ジャンプ」が見えてきました。
どのような「ジャンプ」か? それは、2つの異なる方向への困難な「翻訳」の往復運動です。
1. 「核心の体験」から「具体的なルール」へ
デザイナーは、まず「人間は、〇〇という構造に根源的な快感を感じるはずだ」という、データでは証明できないインサイトを持ちます。
そして、その抽象的なインサイトを、特定のゲーマー共同体が「面白そうだ」と感じ、手に取ってくれるような、具体的な「ゲームの仕組み=メカニクス」へと翻訳せねばなりません。 2. 「市場の流行」から「根源的な面白さ」へ
あるいは逆に、市場の流行(例えば「協力ゲーム」とか「レガシーシステム」とか)を入り口としながらも、その形式を通じて、プレイヤーをどのような予期せぬ面白さの根源的体験へと導けるかを探求する必要があるでしょう。 この2つの「翻訳」は、どちらも論理的な必然性をもちません。
デザイナーは、プレイヤーが「面白そうだ」と期待している地平(メカニクスやフレーバー)から、彼ら/彼女らにとっては言葉となる前の、まったく新しい感動の地平(「面白さ」の核心的体験)へと、その「ジャンプ(跳躍)」の架け橋を設計するのです。 ボードゲームデザイナーの「らしさ」は、小説家や監督のような「文体」や「表現」にではなく、この架け橋の設計思想そのものに、最も色濃く現れるのだと思います。
ではなぜ、その「らしさ」は、他のボードゲーム以外の作家よりも見えにくいように感じられるのでしょう?
それはボードゲームのルールやメカニクスが、本質的に「非人格的」で、誰にでも再現可能な「客観的な構造」としての性格を強く持つからかもしれません。 例えば小説の文体は、作家の身体と分かち難く結びついています。
けれども、ゲームのルールは、一度設計されれば、デザイナー自身の手を離れて、そのルール自体が自律的に機能し始めます。
優れたボードゲームデザイナーの「らしさ」、つまり作家性とは、作品に自らの「個性」を刻印することではないのかもしれません。むしろ、自らの「個性」を括弧に入れ、遊び手の心の内にある「普遍性」と、ゲームの「構造」そのものとを、最も純粋な形で出会わせることに現れます。
私たちがボードゲームを遊んで「なんて面白いんだ!」と感動するとき、デザイナーの「らしさ」を感じるときよりも、彼/彼女の巧みな設計によって、私たち自身の「らしさ」を、その盤上に映し出してもらえたときなのかもしれませんね。