遊んでいないゲームについて堂々と語る方法
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本書は、「(読んでいない)本」について述べたものですが、その射程は広く、場所にも、映画にも、漫才にも適用できる普遍的な内容です。
行っていない場所について堂々と語る方法
観ていない映画について堂々と語る方法
知らない漫才について堂々と語る方法
——という具合に。
数多くの新しいボードゲームが毎日のようにリリースされています。
必然、「積ん読」ならぬ「積みゲー」も増えていくことでしょう。
まだ遊んでいないゲームについて語らねばならなくなったとき、それが話題作であればあるほど、ボードゲームフリークはそのゲームについて語れないとちょっと気まずい。 そんな気まずさを、「本」を肴にバイヤールは前掲書では指摘しました。
そもそも我々はなぜ「語りたい」と思いがちなのか?
ここには、趣味の世界における「象徴闘争」という亡霊が潜んでいます。 趣味とは、他者と自らを区別し優位に立とうとする「象徴闘争」の場なのだ、と。
「ディスタンクシオン」は、区別、差異、卓越などを意味するフランス語。 「界(フィールド)」においては、文化資本が賭け金となる。 ボードゲームならば、どれだけボードゲームを遊んだか、知っているか。
「あの新作はもう遊んだ」とか「名作だよね」と言ったような発言は、彼/彼女が属する「界」における地位を高めるための戦略的な一手、ということ。
この闘争において、「遊んでいない」「知らない」と述べることは、資本の欠如を意味し、敗北を意味しかねない。だから我々は、この無意識な競争圧力から逃れ難いのです。 ブルデューのこの分析は、単に趣味世界を冷笑的に暴いたというわけではなくて、我々の「好み」がいかに社会的に形成されているか(「ハビトゥス」と呼びます)、そしてその「好み」がいかにして社会階層の文化的再生産に加担しているかを明らかにした非常に重要な社会学的洞察でした。 バイヤールの議論は、このブルデュー的な闘争のルールそのものを、別のゲームへと転換させる魅力があるように思います。
その「前に遊んだんだ」という経験は確実なものか?
この経験の確実性をバイヤールは前掲書で揺さぶります(つまり「『読んだ』とはどういうことなのか?」という問いかけ)。
物理的な不可能性
世界中のゲームをすべて遊ぶことは誰にもできません。
我々は本質的に「遊んでいないゲーマー」と言えます。
記憶の不可能性
たとえ何度か遊んだとしても人間の記憶は不完全です。ルールは忘れ、感動や興奮も薄れます。
そのゲーム経験は、やがて自分自身の現在の関心や経験を投影した〈遮蔽幕(スクリーン)としての書物〉となります。
こう考えると、もはや「遊んだ/遊んでいない」の二元論は意味を失います。
重要なのは、そのゲームをどう語るか、という実践そのものになるでしょう。
「知っている」と思わない。
では、どう語るのか? バイヤールの処方箋は我々がとらわれている二つの「知っている」という思い込みから、自分を解放するということでした。
「——堂々と語る方法」というタイトルがミスリードを誘いますが、彼はけっして、語りの技術やハウツーを前掲書で説いたわけではないのです。 どんな思い込みか?:
1. 「他者は知っている」という思い込み
「あの人はあのゲームを遊んだのだから詳しいはずだ」という幻想。
2. 「私は知っている」という思い込み
「私は以前このゲームを遊んだのだから、その内容を知っている」という考え。
特に重要なのは後者で、自らの忘却を認める。この態度が我々を、「文化資本を競わざるを得ない状況」から救い出し、新たな創造のきっかけを与えてくれるのではないかと思うのです。 他方、この創造性へとつながる態度には危うさを含みます。
バイヤールによれば、「読んでいない本について語ることは、まぎれもなく創造の活動」でした。それは、ブルデュー的な闘争から距離をとり、自分自身の言葉で世界を再構成する、積極的な営みとなりえます。
けれど、この考え方が現代にもつ危うさについても、我々は自覚的である必要がありそうです。
バイヤールの前掲書が評価された2000年代後半は、Web2.0ムーブメント下、個人発信が称揚された時代でした。 その後の2016年、日本語版文庫が出版された年は、ドナルド・トランプが大統領となり、ポスト・トゥルース時代が幕を開けた年です。 事実よりも個人発信を重視し過ぎる態度は、一歩間違えれば、専門知を軽視し、自分が信じたい物語だけを信じるという、現代的な病理を肯定しかねません。 「遊んでいないボードゲームについて堂々と語る」という行為は、ブルデュー的な闘争をやめ、我々を創造性へと導く魅力的な側面が確かにあると思います。
その一方で、顔の見えない他者と会話するための対話において、無自覚に振り回してよい態度とも言えません。
日常にどのような魔法円を設置すれば、このボードゲームという「趣味」を、より豊かで、より自由なものにすることができるのか。その道筋は、皆さんと一緒に、探していきたいですね。