「変革の方法としてのプロジェクト観」試論
プロジェクト状況とは、実に曖昧で漠然としたものです。人間という卑小な存在の力では、時間的にも、空間的にも、その全体を見渡すことはかないません。
プロジェクト状況に直面することは、地図を持たずに樹海に迷う、といった体験ににています。
私たちは、そんな曖昧で漠然とした状況の認識に、輪郭を与え、判断と決心をしやすくするために、プロジェクトの情報管理というものをするのであります。しかし、世の中を見渡してみると、聞き齧り、見様見真似の管理術により、地図によって道を見出すどころか、かえって己を迷わせるようなことをしている人が多いのは嘆かわしいことです。
そもそも、ものごとを、見る、ということはどういうことか。
それは、現実世界に対して、観察者自らが、己のパースペクティブを、つまり、原点や座標軸、消失点やアイレベルを、与える、ということなのです。
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パースペクティブ、つまり、遠近法とは、どういうことか。それは、以下の問題を明らかにする、ということです。
その状況に向き合う主体者にとって、その取り組みに関わる要素の、何が近くにあって、何が遠くにあるのか。
何が重要で、何がそうでないのか。
いま誰が何をすべきなのか。
我々はどこからきたのか
いまどこにいるのか。
これからどこへ向かうのか。
取り組みに関わる人たちそれぞれにとっての、ひと、もの、ことに対する距離感を明らかにすることで初めて、その取り組みに秩序が与えられ、目的が定まり、資源が有効に、効率的に活用されていきます。
①プロジェクト状況の近代物理学的解釈
プロジェクト管理、いわゆるプロマネと俗称されるものの代表選手といえば、ウォーターフォール型マネジメントというものです。これは、時間に対して、成果物と作業がリニアに対応するという、実に客観的で論理的な「見立て」なのでした。
試みに、その世界観を図示すると・・・
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注釈
なんだかんだいって、ウォーターフォールが、プロジェクトを考えるために、もっともわかりやすい
どんな取り組みも、こういう枠に当てはめてしまうことが可能である
一方で、実はこの世界観で物事を進めるためには、依頼者もプロ、受諾者もプロである必要がある
双方が素人で、無理やりこれをなぞろうとすると、悲劇しか生まれない
プロジェクト工学を提唱したいと思ったのは、その悲劇がどうにかならんか、と思ったのがきっかけだった
このウォーターフォールという世界観は、そこに関わる人間同士が、自由意志を持ちかつ平等な主体者であることを求めます。つまり、近代西欧社会における理想的な市民同士の「契約」こそが、その前提となっているのです。
ウォーターフォール的な考え方は、まさに、近代という思想を反映しています。これを支えているのは、上流、中流、下流という、時間的な前後関係において、プロセスの分離が可能であり、それにあたっての引き継ぎ内容は、必ず言語化できる、という信念なのです。
もちろんそれはあくまで理想論であり、現実的には、完璧な契約を結べるとは限りませんので、想定外や変化に直面したら、都度都度、変更契約を交わす、というあり方が、我々の社会における実務上の信頼関係の基礎となっています。
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基本的には、このウォーターフォールという考え方は、取り組みの組み立て方として、確かに人間の思考プロセスの基本的なパターンに基づくものです。機会があり、発案し、期待する結果に基づき、成果物を定め、終了条件を見極め、発揮すべき性能や機能を満たす形状、構造を描き、作り、確かめる。
しかし、こうしたプロセスは、ある程度実績や経験のある題材(つまり、ルーチンワーク的な取り組み)に対しては有効であるものの、未知の要素を多く含む場合や大規模、複雑化した取り組みにおいては、そうとは限りません。
プロジェクト活動のなかでも、契約関係がシンプルで、先読みがしやすいものにこそ、有効であると言えるでしょう。
ウォーターフォールという概念は、ガリレオやニュートンらによって創始された近代物理学を連想させます。
彼らは、絶対時間と絶対空間を定義し、そのうえで、質量を点とみなし、時間という変数でそれらの関係性を描写する、という発想により、物理現象を数理的に扱うことを可能にしたのでした。これはつまり、神の視点、ということです。
もし、未知の要素や複雑性の高い取り組みであった場合に、それをウォーターフォールマネジメントによって達成しようとするならば、神様とは言わずとも、スーパーマンのようなプロジェクトリーダーが求められます。
(若干の脱線が許されるならば)
東洋哲学に喩えるならば、ウォーターフォール理論の成立は、初期大乗仏教、経典でいえば維摩経や般若経が成立し、その後天台教学として大成されていった過程と似ています。共通しているのは、この世の、そして人間のあらましを、正しく要素に分解し、繋ぎ合わせることで、制御が可能である、という希望に基づいている、という点です。
音楽に喩えるならば、ひとりの作家により、極めて構築的に構成された、クラシックオーケストラの世界。ウォーターフォールの究極の理想形は、ベートーヴェンの第九である、と、言えましょう。
あるいは文芸でいえば、長編小説、教養小説の世界を連想させます。つまりそこにいるのは、大きな物語を、一人の作家が語りおおせるのだ、という信念なのです。
②プロジェクト状況の相対論的解釈
日本社会で、特にものづくりの分野で、これを実践的に扱いやすい形とするために発達したのが、コンカレントというあり方でした。
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注釈
前後の工程を担当する人同士が、緊密にコミュニケーションをし、すり合わせをする
一番肝心な仕様や要件を、あえて言語化せずに、暗黙知、組織知のなかで取り扱う
なんとなく似ているので、コンカレントをやっているのに、ウォーターフォールだと勘違いしている人も多い
一方で、コンカレントの良さを最大限に引き出すマネジメントが実践できている企業組織は稀である
これは、あえて工程の前後にある境界を、曖昧にする、という発想です。コンカレントにおいて重要なのは、工程の上流、中流、下流は関係なく、重要な関係者同士は、取り組みの間、緊密に連携するのだ、ということです。
一般的には、リードタイム短縮の技法であると解されることもありますが、筆者が某自動車メーカーの開発本部のベテラン社員の方から聞いたところによると、むしろ、非常に多様な意味を持っているとのことでした。組織的な暗黙知の伝承、人的関係性の形成、当該企画における価値の共創的発見、といったものです。
欧州の自動車には、デザイナの存在感の気配が濃厚にあり、北米にはマスプロダクションの理想像が見える、というふうに対比してみますと、日本車は、実に風土的な産物であるように感ぜられます。
その姿を、その心を、プ譜によって描いてみると、下図のようになります。
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参考図書:共創とは何か 単行本 – 2004/12/1 上田 完次
ニュートン力学との対比を受けてみると、こうした見方は、物理学の世界で、時間と空間を等価だと捉えた相対性理論を連想させます。時間は支配者ではなかった、ということが、相対性理論の与えた衝撃でした。
そして、プロジェクト活動においても、実は、支配者たる天才クリエイターとか敏腕プロマネという存在が、フィクションである、という発想は、常に可能であるのです。
自動車産業に限らず、ゲームやアニメーションなど、世界的に日本企業や文化が優位性を発揮した分野は、共通して、このコンカレントの世界観が適合しています。そして、このコンカレントという組み立て方は、見様によっては、ネット時代に見出されたアジャイル的なものと、ある意味ではとても似ているのです。
日本の大組織、特に製造業の研究開発部門がアジャイルと出会った際に生じた戸惑いは、日本企業のコンカレントへの無自覚性が、その要因のひとつにあったのは間違いありません。
(再びの脱線)
音楽でいえば、近代都市と音楽産業に身体感覚が持ち込まれたによって生じた、リズム&ブルースやソウルというジャンルに対比できそうです。そこにあるのは、ひとりの天才的な主体者によって、原点と座標軸が民衆に与えられるのではなく、ともに相互作用しながら、価値を創り上げるのだ、という思想です。
文芸でいうと、連歌や俳諧の世界。客と亭主がいて、それを囲む仲間が生み出す、ワークショップ型の即興芸術。ひとりの作者が支配する時間、空間ではなく、場、とか、間、とか、そういうふうにしか言えないような何かが、即興的に、相互に影響しあいながら、その場でしか成立しない、その時、その場所、その瞬間の表現を成就させる。近代西洋文明との出会いにおいて、こうしたありかたが「主体性のなさ」「後進性」に見えてしまった心の傷は、現代に至るまで影を落としています。
コンカレントというあり方の成立を、東洋哲学の文脈に類推するならば、天台教学を学んだ人たちの一部が、比叡山からおりて、町や村、里といった現場に身を置いて、実学としての、あるいは実践としての仏教を模索していったプロセスを連想します。
理想とは、理想である。理想を念頭に置きつつ、型を柔らかく使うことで、価値になる。卓上計算では語りきれないなにか、言語化された体系では、扱いきれないなにかが、そこには、必要とされるのです。
工程を、行きつ戻りつしながら、みんなの力でひとつの価値を見出し、形にしていく過程。
さて、人類がこのようにウォーターフォールという理想形、現実論としてのコンカレントという大きな武器を手にした頃、電磁気学や熱力学という機械文明の基礎理論や基礎研究の成熟というもうひとつのおおきな胎動を迎えていたのでした。
これらが資本主義という母体で育まれた結果、生じたのが、大規模な工業的開発活動でした。これらと同調するかのように出版技術や電波放送、市民社会といったものが形成され、これらにより巨大市場が誕生することとなり、そのなかで自動車産業や重化学工業を中心とした機械文明における基幹産業を築き上げることに成功したのでした。
③プロジェクト状況の量子論的解釈
それが爛熟期を迎えたとき、インターネットを契機として、情報的な成果物を生み出すフレームが必要とされ、研究され、アジャイルと名付けられたのでした。
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注釈
アジャイルについては、沢山の人が沢山のことを語っているわけだが
諸派の差異に注目するのではなく、共通性を捉えてシンプルに本質を語るとするならば、こういう図式になる
これもまた、あらかじめ仕様や要件を言語化できないものを探索的に開発する手法である
ネットビジネス、ウェブサービスの専売特許のようなイメージもあるが
先駆的な例として、例えば少年ジャンプ的な仕組みもアジャイルといえばアジャイルではなかったか
つまり、情報的な成果物を生み出すのにアジャイルは適合している
アジャイルという思想の本質は、長期的な展望が、人間の知性によって扱いきれないのなら、いっそのこと、人間に扱うことのできるスケールに、ものごとをぎゅっとコンパクトにしてまおう、というものでした。
これは、ものを作るプロセスを、人間同士の役割分担を熟成させるプロセスと表裏一体にしてしまえる、という意味でも、大変に意義のある考え方です。
ものを作って、世に出すという行為の起承転結を理解することは、その部分を担う人間にとって重要です。自分が直面している小局が、大局のなかでどこに位置付けられ、どのような意味を持つのかを認識することは、作業の妥当性を高め、効率性にも寄与するからです。
短い期間で大きく環境が変化するインターネット時代に、こうした手法が体系化されたのは、実に必然性のあることだったと言えるでしょう。
物理学への比喩を続けるならば、イテレーションとか、スプリントとか呼ばれる、アジャイルにおける開発行動の最小単位は、プロジェクト状況の「量子化」に相当するようなことではなかったのか、と思われます。
(脱線)
東洋哲学でいえば、華厳経が該当するでしょうか。一即多、多即一の世界観。たったひとつの要素が、宇宙の全てを反映し、あらゆる要素が互いに繋がり合い、響き合っている。極小の世界を通り抜けると、極大の世界に繋がる不思議。因果では語りきれない、まさに、不可思議。最小単位にまで還元する、量子化する、ということは、つまり、そういう思想です。
まぁ、現実的な経済活動において、そこまで高級なレベルでアジャイルが実践されていることは、ほとんど見かけませんし、アジャイルを論じる人たちにも、そのことを理解している人は、皆無に近いようには見えますけれども…
音楽でいえば、パンク、とか、オルタナティブ、といった言葉が響き合います。衝動的なものが、たったひとつの衝動的なフレーズが、世界に衝撃的な意味を与える、という奇跡。
あるいは、久石譲や川井憲次らのような、つまりミニマリストと呼ばれる人たちがやってきたような、ミクロな最小単位が、マクロな秩序を生み出し、視覚と聴覚を身体感覚によって繋げてきた試みにも、同じなにかを感じ取ることができます。
文芸において、俳諧が俳句へと進化した現象も、量子化という概念と、無縁ではなさそうに思えます。その文明で紡がれてきたあらゆる暮らし、歴史が、季語に象徴される、という量子化。詩や歌を、ひとつの句にまで凝縮させるという思想。切ることにより、響き合わせるのだという発明。
④プロジェクト状況の素粒子物理学的解釈
インターネットにおける、情報処理と通信の急速な進化により、2020年頃から、経済活動における情報系と物理系の双方が融合していく、という状況が出来しました。
いま、それは「変革」という言葉で語られています。工業社会から情報社会への転換期によく使われたのは「改革」の言葉でした。変革の言葉には、より根本的な地殻変動、というニュアンスがあります。
確かに、現代社会とは、ウォーターフォールでも、アジャイルでも扱いきれない、異次元の、制御困難な様相を呈しています。プロジェクト理論は、もう一歩先へと洗練される必要が生じているのです。
プロジェクト工学においては、それをトライアドと名付けたいのです。
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変革、という過程は、ウォーターフォールの中心にあった「マイルストン」という概念では、絶対的に語ることができません。物理学で、極小の世界を見つめていくと、ニュートン力学の法則がまったくあてはまらなくなるように。変革過程の局所に発生するサブプロジェクトでは、もちろん、ウォーターフォールやコンカレント、アジャイルといった方法論があてはまる部分が存在しますが、それらは、変革というプロセスの全体像を語ることはできないのです。
もし可能であるとするならば「4つのフェーズ」から考える、という以外にはなさそうに思えます。
変革とは、その願いを抱えた人の究極のゴールに、人々を巻き込むこと、否応なしに巻き込んでいくとういことです。
そんな変革プロセスにおいて、「構想期」は、実に孤独な時間であると言えましょう。ただただ静かに伏線を張り続ける時間。日常世界、表面的な組織にはなんの兆候も見せないし、見えてこない時間。しかしその時間のなかで、複数のサブプロジェクトは進行しているのです。一見、なんの関係もないように思える取り組みたちに、意志を持つ主体者が、つながりを見出す時間、とも言えます。
張り巡らされた伏線が、互いに関係を持ち合うプロセスが「組成期」であり、それは必ず「事件」により始まるものです。 「謎」が人々を駆り立てる、全く異なる日常の始まりです。こんなゴールを目指しましょう、そのために、これこれの要件を満たしましょう、といった契約や約束によっては、変革は駆動されないのです。
このことを考えるにあたっては、モスコヴィッシの意見を強く参照する必要があります。社会がより良くなるために、あるいは過ちが改まるためには、その社会が外部に対して開かれた系である必要があり、またそのような社会における少数の先覚者が、既存社会との応答を繰り返しながら、ともに変わっていくのだ、ということです。
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参考図書:矛盾と創造 自らの問いを解くための方法論 – 2023/5/1 小坂井 敏晶 (著)
つまり、変革過程とはその社会の行動規範の逸脱と再構築であり、それが生じるための「実行期」の特徴は「オールウェポンズフリー」「マーシャルロー」「万人同士の闘争」という言葉が似合います。それらがいかなるゴールや帰結をもたらすのかは、仕掛け人にもわかりません。ただひとつ言えるのは、それらが成就した場合、「終結期」においてもたらされるのは「新たな秩序」である、ということです。
アジャイルの項で、それの思想の本質が「量子化」だったと語りましたが、より正確に言うとするならば、それは古典量子論だったのです。つまり、相対論との結合が果たされない理論体系だったのでした。本項の、つまり変革過程を考えるにあたっての物理学からのヒントは、おそらく、相対論的量子力学、つまり場の理論や素粒子物理学の世界からもたらされるはずです。
プロジェクト理論の世界にも、パウリやディラックたちのような、理論の統合者が必要です。
プロジェクト工学という探究活動も、そうした潮流に貢献するもののひとつでありたい、と、願っています。
(脱線)
おそらくここで語ろうとしている何かは、アメリカにおいて生乱されたジャズやビートニクと呼ばれた胎動と、因縁浅からぬものであるはずです。
東洋哲学でいうと、理論と実践の究極の統合である、真言密教的なものになるのかもしれません。いや、もしかしたら、特定のお経や教義の枠組みで語ってはならないのかもしれません。空海が大成し、法然に引き継がれ、親鸞が普及させ、大拙が再興せしめたもの。たったひとりの内部変革が、世界の変革と表裏一体であるようなもの。
あるいは、侘び茶において、揺籃期を珠光・紹鷗が担い、型を大成した利休、宗二がいて、織部、有楽斎を経て通俗化に到達し、なおかつそれに光悦があらがった、というような。
もしかしたら、鈴木大拙博士がジャック・ケルアックと邂逅したエピソードは、実に重要な一瞬だったのかもしれません。
結語として
冒頭の、パースペクティブのたとえに戻りますと、プロジェクト管理における消失点とは「成果物が、仕様として明らかになった状態」なのであり、つまり成就の瞬間である、と言えるのだろうと思います。そして、各種のプロジェクト管理モデルは、その産業構造や社会環境にあわせて、取り組みの起承転結を、時間軸として整理したものだ、ということだと考えられます。
ものごとは、放っておくと混乱し、エントロピーが増大していくばかりです。人間という主体者にとっての有価物を、最大効率で獲得するために、最小作用の原理によって構築してきたのが、プロジェクト管理の方法論だったのでした。
仕様とは、ただ単に、任意に(あるいは恣意的に)理想像を描けばよい、というものではないのです。
仕様という言葉の、通俗的な意味でなく、絶対的な意義について考えると、それは、言語や数字、図面などの情報表現ができる必要があり、それをもとにプロトタイプを生み出すことが可能であり、最終的に、量産し、経済活動として成立させることが可能であるような、そんな情報群のこと、ということなのだと思われます。つまり仕様とは仕様書のことではなく、そこに成果が顕現して初めて理解されるもの。そんなふうに、考えていくべきなのだと、思っています。
さて、おそらくここに書いたものは、プロジェクトという活動を理解するための、統合的理論の足場としては、かなり十分なものになっているかなと思っています。これはこれでひとつの達成であるわけですが、理論はあくまで理論であり、現場においては臨床が求められます。臨床を語るためには、おそらく東洋医学の叡智を借りる必要がありそうですが、それは本稿のテーマからは手に余りますので、また稿を改めたいと思います。