第233回例会「キリストの処刑は場所の論理を可能にしたのか」
【発表概要】
この発表の目的は、西田幾多郎の哲学である場所の論理が、自己の成立(位置付け)に関して、どういった点に踏み込んだか、またその論理を可能にした背景は何かを探る事にあります。またその探求の為に、聖書を引き合いに出して、「自分」という在り方を理解するまでのプロセスを確認した上で、それを場所の論理に突き付けてみます。 https://scrapbox.io/files/64586c522b751bb405d1e675.png
(その他のホワイトボードの時系列記録を記事末に置いています)
西田哲学は永井均「西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ」を難しいなと思いつつ少し読んだくらいでしか知らなかったので聞けてよかった。 有の場所の 有-無 や 場所 ではない、絶対無の場所という話が難しいなと思った。
述語が先立ち主語は無であるとして(「私が雷鳴を聞く」のではなく「雷鳴そのものが私」)と西田は類比的に説明したが、途中フォイエルバッハが神の属性を人間の方に剥がし神を無として捉えれたように絶対無に関係するのは主語では無いかという質問が途中にあって興味深かった。 絶対的な他者である神に対峙する世界がそこから開けている私として「神よなぜ見捨てたのですか」と叫んだキリストが、キリストの記憶を持ってキリストとして復活してしまったときのズレ(これは朝起きて自分が自分の記憶をもっていることとどう違う...?)と西田が汝を導入して場所の論理を成立させてしまったズレ。
西田哲学に関しての知識が一切ない状況で例会に参加したため、あまり理解が追いつかず口惜しい結果に終わってしまった。
さんまさんはイエス自身の中で行われている言語的な活動が周囲の人間からは理解し得ないものになっているのは、それがもはや単に他の人間がイエスではないというレベルの話ではないと言っていたが、そもそも個々人に世界とは独立の合理/不合理を超えた空間があるということ自体があまり理解できていないので、それが自己の確立とどう関わっていくのかが分からなかった。
お話自体はよく理解できるもの。発表者の聖書への読み込みが強く、おもしろい読みとは言えるが、筋書きとしてどうだろうか。どちらかといえば「聖書の解釈」というよりも「聖書を題材にして書かれた小説」のような形で今回のストーリーを提示された方が、よかったのではないかと思う。「汝」へと深化した後期西田哲学がある意味で「失敗してみせていた」ものであることは、発表者とも意見の一致をみたが、それが「意義のある失敗」であったのかどうかについては、そこから引き出せるものを更に展開してみないことにはわからない。発表者の次回作に期待したい。
どんな話だったかというと:
西田幾太郎の哲学では、「SはPである」といったかたちで記述される主語と述語の関係や二項対立、あるいは言語で知識として表現されるような世界が存立するためには、それらに先だってそれらが映される場所として「絶対無」が要請される。
「絶対無」が世界を映し出すという経路は必然的に要請される一方、世界の側から「絶対無」を認識または構成する経路は絶たれている。 ONE WAYであり半透膜とかハーフミラーみたいなイメージかな。
こうして「絶対無」は世界(=論理)を超越したものであるが、「絶対無」に論理を導入するためには「絶対無」がどこかの場所「において」映されるという関係がさらに要請される。そこで「において」関係(によって比喩される何か)を表すために「絶対無」=「我」に対して、「我」を置く場所としての「汝」が設定される。
発表自体は時間内に完結しなかったが、論理的世界を超越した絶対無というのは当然矛盾含みで語るしか語りようがないもので厄介な代物である。まあそういう超越概念を使い回す哲学というのは珍しいものではないから、矛盾含みであるだけでリジェクトするのは早計かもしれない。さて、論理的世界を超越していて不合理だが、そういうものが無ければいけないんだというのは不合理を棚上げする形で飲み込むとしても、それをさらに論理の世界に投げ返すために、「汝」という装置を使うのは不合理に不合理を掛け合わせれば合理的な世界に回帰できるとでも言っているかのようである。ただ絶対無(場所)というだけでも不合理なのに、場所の「論理」にするためにさらに不合理を導入するにしても、もう一個まるごと「絶対無」である「汝」を導入するのは燃費が悪過ぎるんじゃないのか??? パッと代替案は出せないが、「汝」よりもっと軽量な解決策あるいは選択肢がありそう(不合理というコストの削減ができそう)な気がしてしまう。
永井均の<私>哲学とどのように照応するかという話もあったが、ちょっと私の理解力では「累進構造」などと言われてもパッとわからない。個人的にも西田哲学の理解という面でも交通整理はしておきたい。 キリスト教徒なんて日本人の1%以下の勢力であるが、聖書のエピソードを引いて常識的な自己理解の事例とするのは本当に妥当なのか?という疑問もある。 (1)知恵の実を食べる前後で、羞恥心としての他者感覚をゲットし、劇的に「私」の存在様式が変化したことと、
(2)磔刑時の絶望したジーザス(なんで「私」が磔刑?と一人称で思っているのは一人だけで、他人も神もみんな三人称の「ジーザス」君が磔刑だと思っている)と奇跡として復活した神としての私であるジーザスとの決定的な変化が並べられている。
これらの事例は「<私>に固有な特徴とは、自己自身に不一致な点である」という特徴を表しているとされていた。そこまで言ってしまうと、私とは矛盾したものであり、矛盾したものは世界ではなく絶対無の側に在るのだから、「矛盾とは真理の標識である」というヘーゲルの言葉が連想される。まあヘーゲルはプロテスタントだからそれでいいけど、我々日本人は奇跡を奇跡として(唯一神の恩寵として)信じているわけでもないから、そんな風に考えてないんじゃないのという気もする。ただ、一般民衆と西田との間とにもズレはあるだろうから、西田哲学に対比し得る常識的かつ突き詰めた自己理解としてはいいのかもしれない。
(オマケ) 例会動画を視聴した魔神ぷーさんの、連投による感想:
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【ホワイトボード時系列】
(↓複数の人間が世界にいる中で、特別な一人だけのアタマの中に他人たちが収納されている図)
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(↓「SはPである」という主語と述語の組み合わせで、バナナはくだものであるという類に含まれる言い方と、このグミは新宿において在るという述語で置き場所を指定する言い方がある)
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(↓図の上部が「有の場所」であり命題知や類種関係が成立している。「有の場所」が映されている図の下部が「無の場所」と呼ばれる究極的な場所であり、「絶対無」と呼ばれるとのこと)
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(↓ボード右側。絶対無の「無」はnothingの意味なのか、空間的な無であるemptyなのか、あるいは有ではないというnegationなのかというと、文脈に応じて語り分けられると共に、数学的には区別されないのではないかという話になった)
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