第245回例会「聖書のメタ解釈から探る普遍的理解について」
会場は西新宿。2024年3月2日土曜日
参加者12名。
ふかくさ.icon ふかくさ「発表者の主張に対して、具体例として取った題材が創世記と新約聖書の物語という選定がまずかった。なぜならば、聖書物語の分析だけでは単一のケーススタディとなり複数のケースの共通部分を説明可能な主張にならないからであり、また、主張を示してから具体例を示さないと読者にとってはノイズが多いため注意がブレるからである。また、聖書を取り上げるなら救済が問題になるが、発表者の主張では罪人も救済されてしまうことも不整合を引き起こすからである。なぜ他でもないジーザスが磔刑(たっけい)に処されたのか、あるいは創世記におけるイブ誕生の機能と知恵の実実食の機能の差についても、「このように解釈せざるを得ない」といったものではない恣意的な解釈であり、提案というに留めるべきだっただろうし、矛盾しているとまでは言わないにしても、私にはクリアな分析・説明に見えなかった」 Syun'iti Honda.icon Syun'iti Honda「創世記と新約聖書のメタ解釈としての評価は他の参加者から疑問や批判がありましたが、この二つの物語を手がかりに、自己認識と自己意識、そしてその変化を捉えるようとする発表者の理論の展開は興味深いものでした。私の理解力と時間の制限があり仕方がなかったと思いますが、上記の過程に伴う善悪の変化についてもう少し詳しく論じてほしかったです。」 聖書の一般解釈こそ知らないが、自分なりにメタ解釈を考えていた。
聖書とは聖書読者に罪の意識を植え付けあるいは強化し、労働や子作りに励ます意図があるが、なぜそう理解をせざるをえないか?という見立てだ。
①アダムがイブ(女)と相見える前と②後、③知恵の実を食べた後をそれぞれ
①野蛮②無垢③大人(あるいは聖書を読む人)と類比させる。
①→②において、母からの声かけで自らの空腹や排便への意思を言語化する技術を習得する過程を想像するとよいだろう。母から浴びせられる言語から自己認識が促進され、ホモサピエンスは人間になる。
しかし②→③において、論理的に無垢は放棄せざるをえなくなる。知恵の実を食べることはよいことに思えてならないからだ。また、これは一般に幼児期の人格と今の人格の不一致さからも示唆されると思われる。そして③は同時に罪でもあるわけだ。ここで知恵の実を食べる倫理と知恵という道徳(=下半身を隠す)の対立の図式を見てとることができないだろうか。当初は倫理的あるいは功利的な判断でしか禁止を捉えることができなかったのが、善悪を知ることで禁止、そして罪を真に理解できるようになる。罪は神から課されるが、その引き受けと、道徳的内面が作り出す悪の意識が置き換わり可能になるのだ。
これらから①→③が導出されるが、これがマンマ氏による自己認識的な自己(無垢さ)が消去されることのズレやならざるをえなさの指摘の正体である。と考えていた。
谷口一平.icon 谷口一平「マンマのさんま氏は「自己認識の成立」→「自己意識の成立」という、通常とはひっくり返った存在論的発展段階を想定しているようだ。独創的で面白いが、それが何なんだかよくわからなくもある。」 内容としては非常に面白く新鮮なものであったが、それ故にあくまで多くある聖書解釈の中の一つに落ち着いてしまったように感じる。おそらくこの発表の筋になっているであろうさんま氏の哲学がそもそもどのような主張であるのかをまず先に教えてほしいと思った。
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