1972年
▶ 1973年
1972年、河田勉は京都大学工学部電気工学教室坂井研究室の長尾真助教授の下に1年間研究生として入室した。研究生とは、企業から研修に来る技術者や、大学院浪人などを教官が個人的に預かる制度である。ここで、天野真家に邂逅することになる。
河田は、長尾研究室で「日本語分析プログラム」の研究を行った。これは、文の統語解析であって、文節の形態素解析ではなく、かな漢字変換とは無関係な研究である。
河田が京大の研究生として送られて来た裏には総合研究所の彼の上司である森健一の戦略があった。
天野が直接に河田から聞いたところでは、森は「これからは日本語の計算機処理が重要になる。」しかし、社内には自然言語処理の専門家は皆無であるということで、自然言語処理の上流に当たる意味論、語用論の研究をしている長尾真助教授に依頼して河田を研究生として預けたのであった。
かな漢字変換という用語を作り出し、直接に研究していたのは九州大学の栗原俊彦教授の系統の人々であった。