エピクテトスの幸福論
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本文
世の中には「自分の力の及ぶもの」と「自分の力の及ばないもの」がある(p. 59)
「自分の力の及ぶもの」……判断、努力、欲望、嫌悪などの私たちの意志の所産の一切
「自分の力の及ばないもの」……肉体、財産、名誉、官職など
「自分の力の及ばないもの」に対してどうにかしようともがくのは愚かなことであり、それは「どうにもならないもの」として受け入れるべき
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エピクテトスによれば、「不幸」とは、人がそれを「不幸」として見るから「不幸」だと見えるものに過ぎない。「実在する」のは「何らかの具体的な不幸」ではなく、「何かを不幸と考える自分の考え」でしかない。(pp. 59-60) ex. 「虐待」は「虐待された」と考える自分の観念によって生じる(p. 60)
「不幸」を生じさせるのは「自分の考え」であるから、「不幸」を免れるためには「自分の考え」をコントロールすればよい
もしきみが妻子を胸にいだくならば、きみの愛撫するものが一人の人間であることを、自分に告げるがよい。そうすれば、その人が死んでも狼狽することはないであろう(p. 60)
自分の意志をコントロールし、外から来る「不幸」に対して自由であることが、「幸福」である
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ヒルティのは上述のような考え方を「哲学的利己主義」と呼んで批判し、次のような指摘をする。
エピクテトス的な考え方では、「自らの意志で自らをコントロールしうる力能ないし徳を持つ者のみが自らの「幸福」を実現することができる」が、しかし「その力能を持たない愚かな者は不幸に留ま」ってしまうということ。つまり、優れた一部の人々しか「幸福」を達成できないということ(p. 61)。
エピクテトス的な幸福は「不幸を減ずる程度」のものでしかなく、消極的であるということ(p. 62)
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コメント・感想
率直に疑問点として浮かぶのは、そんなに簡単にいくのか?ということ。「虐待」されているのに、「自分の考えをコントロール」することによってそれを「不幸」と捉えないようにするなんていうのは素朴に考えればだいぶ無理があるように思われる