責任を持ってやることとは、そのものに対して、準備し、実行し、改善するという三つのフェーズが組み込まれていること
アティチュードで大切なのは、質である。
質の高いアティチュードとは責任を持ってやること。
責任という言葉、もっと言うと、「誰の責任だ」「責任を取れ」という言葉が苦手。
「誰の責任だ」「責任を取れ」という言葉は、それを発している側が、責任を放棄することを意味しているから。
これも考えればすぐにわかりますが、構成員全員が「オレには責任ないからね」と言い募り、不祥事の責任を誰か他人に押しつけようと汲々としている社会と、構成員全員が自分の手の届く範囲のことについては、「あ、それはオレが責任を持つよ」とさらっと言ってくれる社会で、どちらが「誰かが責任を取らなければならないようなひどいこと」が起こる確率が高いか。
まことに逆説的なことではありますが、「オレが責任を取るよ」という言葉を言う人間が一人増えるごとに、その集団からは「誰かが責任を取らなければならないようなこと」が起きるリスクがひとつずつ減っていくのです。集団構成員の全員が人を差し置いてまで「オレが責任を取るよ」と言う社会では、「誰かが責任を取らなければならないような事故やミス」が起きても、「誰の責任だ」と言うような議論は誰もしません。そんな話題には誰も時間を割かない。だって、みんなその「ひどいこと」について、自分にも責任の一端があったと感じるに決まっているからです。「この事態については、オレにも責任の一端はあるよな」と思って、内心忸怩たる人間がどうして「責任者出てこい」というような他罰的な言葉をぺらぺら口に出すことができるでしょうか。
とは言え、責任という言葉は人口に膾炙するものであり、避けては通れない。
「私は責任という言葉を使う人が苦手なので近寄りません」という言葉は、人と人の距離を遠ざけるという意味において、「誰の責任だ」「責任を取れ」と同じ構図だ。
だから常々、責任という言葉が意味するところを分解することによって、責任という言葉を使わずして、それでいて同じ効果をもたらす方法を探している。
《責任を持ってやることとは、そのものに対して、準備し、実行し、改善するという三つのフェーズが組み込まれていることである》というのは、秀逸な分解のひとつだと思う。 責任という(無責任な)概念が、準備、実行、改善という手続きに落とし込まれている。
オーナーシップでも似たような考え方があった。
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