「Why」という問いには物事に深く潜っていく効果があるからこそ視野狭窄を生む可能性をはらんでいる
しかし、「Why」の問いは最初に意識しない方がいい、というのが私の持論です。
「Why」の問いを最初に追求すると、必然性のある学びしか目に入らなくなる危険性がある からです。
Whyという問いは、「なぜなぜ5回」というキャッチーな表現とともに、「最初に問うべき問い」「常に問うべき問い」として市民権を得ている。
Whyという問いは、ピラミッド・ストラクチャにおけるWhy So ?がわかりやすいように、物事に深く潜っていく効果がある。
「なぜ?」は思考を掘り下げる問い
だから、「問う」≒頭を回すという意味においては普遍的な効力がある。
一方で、「木も見て森も見る」「マクロとミクロの複眼」という観点からは、Whyという問いにはリスク/弱点があるとも言える。
深く掘り下げるからこそ、他が見えなくなる。
これ以外にあるWhyという問いの弊害はこちら。
【引用】「WHY=~はなぜか?」という表現には仮説がなく、何について白黒をはっきりさせようとしているのかが明確になっていない。
「学び」という、探索的であり、かつ、当人の「合理性」を超えた機会提供に意義がある活動にとって、先んじて視野を狭めてしまうことの損失は大きい。
当人の「合理性」を超えた機会提供というキーワードは『なぜ「若手を育てる」のは今、こんなに難しいのか 〝ゆるい職場〟時代の人材育成の科学|古屋星斗』から。
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#2024/07/03
『独学の地図|荒木博行』
荒木博行
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