『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書|阿部幸大』
まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書
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Metadata
Title: まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書
Last Updated on: 2025-08-21
2025-08-20 09:24
やっぱりこの本面白いな
自分の出自と紐づいてる
やりたいのは、徹底的に分解して手続き化することなんだろう
細野真宏の影響ある
概念を分解、方法を分解、自意識すら分解
それが手軽なtipsである必要はない
それはプロフェッショナルの要件としてトレーニングがあるから
古い方法をちゃんとやる、というのもひとつの価値観かも
新しい方法というのは歴史の上になりたってるわけだから
これからの時代はこれ、といつのは眉唾
分解して手続きにすると、個人にとっては「できる」だし、チームにとっては「共通言語」になる
Highlights & Notes
分析し再構築することの面白さは、その分析対象に本来宿る(あるいは読者が見出す) 面白さとはまったくの別物なのであるからして、自分の作品が制作された手続きの内情を暴露したところで、それが掟やぶりにあたるようには思われないのである。
人文系の論文執筆における最大の困難のひとつは、それが長い文章であるということにある。それを解決するカギとなるのが、 パラグラフ という単位だ。「
9、10章の「発展編」は、かなり思弁的な内容になっている。なぜ論文などを書くのか、なぜ人文学が必要なのか、研究の価値とはどこにあるのか――そういった自問をとおして、 より優れた研究を継続的におこなうための精神的な基盤を手にいれる ことを、「発展編」では目指している。
アーギュメントとはなにか。すこしずつ理解を深めてゆこう。 それはまず、 論文の核となる主張内容を一文で表したテーゼ である。ここでは「テーゼ」を、「論証が必要な主張」 というふうに定義しておく(この定義は重要なので記憶してほしい)。アーギュメントはテーゼの一種である。ひとつの長い論文は大小いくつものテーゼを含むのだが、論文中もっとも重要な、いわば大テーゼがアーギュメントである。とりあえずこのように考えておいてもらいたい 1。
『12週間でジャーナル論文を書く』の著者ウェンディ・ローラ・ベルチャーは、論文が学術誌で不採用(リジェクト) になる理由として、査読のコメントでは議論のクオリティとか着眼点のオリジナリティとかについていろいろと言われるかもしれないが、つまるところ「アーギュメントがないか、またはそれを適切に表現できていないこと」 が究極的な原因なのだと述べている 2。
ここで注目すべきは、ベルチャーはアーギュメントが「ない」と言っていることである。最終的に査読者はアーギュメントの良し悪しを判断するのであるが、しかし、多くの論文はそれ以前の段階で、 そもそもアーギュメントをもつことに失敗している というのだ。たとえば、じっさいわたしも自分の初期の論文などを読みかえすと、アーギュメントを提示できていないことがよくわかる。
この問いに、あなたなりの考えで答えるのではなく、本稿のこれまでの記述内容にしたがって答えてみてほしい。
さきに重要だから記憶してほしいと念を押した、アーギュメント(テーゼ) の定義を思い出そう――それは 論証が必要な主張 なのだった。(1)は「主張」らしき体裁をもってはいるが、それは資料を調べれば正しいか間違っているかが確定してしまうものであって、「論証」できるような「主張」ではない。つまりそれはテーゼではない。
この一文がやっているのは、 価値判断 である。これは主張らしき体裁をなしてはいるが、やはりまだアーギュメントではない 3。
アーギュメントが読者から引き出さなくてはならない反応は、「本当にそうなのか? じゃあ論証してみろ」といったものである。それが「論証が必要」ということの意味なのだ。つまりアーギュメントとは、 論証なしには納得してもらえない主張、論証を 要求 するような文 になっていなくてはならないのである。
この定義を再確認して(2)から(4)に戻ると、これらがすべてなんらかのトピック(ジェンダー) なりツール(フェミニズム理論) なりを 名指した にすぎないということが見えてくるだろう。上述した例はすべて、「研究対象+ X」という組み合わせを宣言しただけの文 である。研究対象や X がいかに高度にアカデミックなものであろうとも、この形式から抜け出さないかぎり、それがアーギュメントに到達することはない。
これらはアーギュメントと 無関係 なのではなく、あくまでもアーギュメント 未満 の段階にある作業なのであり、「論文」を書くためには、その先に進む必要があるということだ。
アカデミックなリソースを参照して書かれた読書感想文どまり
この「論証を要求する」という側面を確実に満たすためのもっともシンプルな方法は、アーギュメントを「この論文は~を示す」という構文で書くこと である。
この「じゃあ示してみろ」とか「本当にそうなの?」といった反応を引き出せるかどうかは、その言明がアーギュメントであるかどうかを測定する重要な指標だ。いいかえれば、これは 反論可能性の有無 である 4。たとえば(5)なら、「いやいや『アンパンマン』は男の話ばかりではないだろう」という反論が誰でもすぐに思いつくはずだ。これとくらべれば、(1)~(4)はそもそも反論すらしにくい形式の文になっていることがわかると思う。
経験の浅い論者は、誰もがただちに納得してくれる「正しい」議論を展開せねばならないと考えてしまいがちである。たしかに論文においては自分のアーギュメントの正しさを説得的に論証することができなければならないのだが、しかし、論証なしに誰もが納得するような自明な意見に価値はない。 むしろ反論可能であるからこそ、主張はアーギュメントたりうるのである。 反論可能性は論文の条件なのだ。
論文を書こうとするとき、誰もがアーギュメント未満のトピックや観察をまず手に入れる。それらはいわば「ネタ」である。ネタが揃ったら、つぎにそれを、論証を要求するような形式の主張、つまりアーギュメントへと書き換える必要がある。そして、こんどはそのアーギュメントを強化してゆかねばならない。このプロセスを、わたしは「アーギュメントを鍛える」 と呼んでいる。
このうち他動詞は、「ある存在 A」が「べつの存在 B」にたいしてなにかをする、という意味の動詞である。 have, take, get, make など、英語の基本動詞のほとんどが他動詞であり、たとえば I have a pen なら、私( A)がペン( B)を手に持つ、という行為の記述である。ここで、 A と B(私とペン) はべつの存在であることに注意してほしい。 それにたいして自動詞の文は A の動作を記述するだけであり、そこには「べつの存在 B」が登場しない。動詞の意味的にも「べつの存在にたいしてなにかをする」という意識が希薄である。たとえば walk や laugh などがわかりやすく、これらは働きかける客体 B(目的語) がなくても成立する動詞だ(歩いているとき A が地面に働きかけているという意識は希薄である)。
これを他動詞モデルに書き換えるという操作は、すなわち「 A と B の関係を動作で記述するにはどうすればよいか?」と自問することにほかならない。男の物語が女性キャラを どうする のか?
他動詞モデルで書き換えるだけで主張が一気にアーギュメントらしくなる理由は、このモデルで書くと、それが 観察の漠然とした記述ではなく、著者が自分の責任において提出している、論証が必要な主張であるという側面が際立つ ためだ。
他動詞モデルの大きなメリットのひとつは、 アーギュメントを構成する要素( A と B と V) を整理して、その各要素をそれぞれ鍛えてゆくという道筋が見えやすくなる という点にある。
これがアーギュメントを鍛えるということであり、それはとりもなおさず、 自分がなにを主張したいのかを明確化する作業 にほかならない。論文を書きはじめる前に、たっぷり時間をとって取り組みたい作業だ。
第一に、多くの標準的なライティングの教科書が「強い動詞を使え」と教えている。これは一面では英語圏に特有の問題で、たとえばケイト・トゥラビアンは「 have, do, make, be」などの「無内容な動詞」を避けよと言っているが 5、英語はこういった意味の希薄な動詞が多いからこそ「強い(=具体的な意味をもつ) 動詞」というアドバイスが活きてくるわけだ。だがこの話は日本人でも、アーギュメントの強弱という感覚を掴むのに役立つ。(5)の「女性が蔑ろにされている」という観察を回答例3で「排除する」という明確な意図をもつ「強い」他動詞で書き換えたのは、こうしたアドバイスの実践例である。 他動詞モデルにおいては、動詞の強さとアーギュメントの強さは表裏一体である。
たとえば「女性が蔑ろにされている」という受動態では「蔑ろにする」主体が曖昧になるのにたいして、回答例3のように他動詞「排除する」を使うと、 誰が誰を排除するのかが文法的に避けられない要素として浮上し、結果として主張内容がクリアになる。 他動詞モデルでは A という主体と B という客体を明示したうえで、 A が B になにをするのかという行為( action) を記述せざるをえないため、内容が具体的になるわけだ。
日本でこの文化が浸透していないという事実それじたいはとくに問題ではないのだが、アーギュメントを提出する箇所において一人称“ I” を使うという感覚と、「ここが自分のアーギュメントなのだ」という強い自覚とは、密接につながっている。 論文とは、あなた個人の主張を提出し、それを論証する責任を負う、そういう場なのだ。
あるいは、たとえば SNS などで盛り上がっている議論を目にしたとき、あなたは自分のアカウントで、「考えさせられた」とか「 X が重要だと思う」などとは簡単に言えても、「 A は B を V しているのだ」といった強い主張を発信することに、 一定程度の躊躇を覚える はずだ。それこそがアーギュメントに接近している証である。反論可能性にさらされ、論証の責任をともなう主張、それがアーギュメントなのだから。
Notes: 書くということは、自意識との葛藤という内的心的運動と切り離せない
これは英語圏にも存在する誤解で、そもそも argue は日常的な用法においては「言い争う」といったニュアンスの強い動詞である。この点についてトゥラビアンは、この意味でのアーギュメントは相手を「言い負かして黙らせる」ことが目的であるのにたいして、アカデミックなアーギュメントというのは「好意的だが懐疑的でもある仲間との会話のようなもの」だと述べている。 彼らはあなたのアーギュメントにかならずしも反論しない(するかもしれない) が、ともかく、そのアーギュメントが十分に論証されたと考えるまではその意見を受け入れることはない 6。あなたが想定すべき「読者」像は、そのような存在だ。
アカデミアとはつまるところ、こういった「会話」の総体である。それは日常会話よりは間違いなく論争的な営為だが、研究者はあくまでも共通の目的に向かってああでもないこうでもないと議論を繰り広げているのであって、たとえば著者 A が著者 B を批判したという事実をスキャンダルのように捉えるのは素人の感覚だ――これがまさしく次の章でとりあげるトピックである。
本章は冒頭で「論文とはなにか」と問い、そして「論文とは、ある主張を提示し、その主張が正しいことを論証する文章である」と書いた。そう、 これがまさしく本書のアーギュメントなのだ。
はじめてジャーナルに投稿するとき、多くの院生にとってはじめての経験となるのは、 読者の顔が見えない という事態である。どこの誰だかわからないがその論文のトピックについて詳しい専門家によって自分の論文がジャッジされるわけだ。むろん彼らは悪意をもって読むわけではないが、しかし、それは自分の名前や顔や声や性格や癖や興味や研究内容などを知っている「厳しい」指導教員に読んでもらうのとは、わけが違う。
レポートの添削から学会誌の査読コメントまで、人文学における論文評価には「面白い」 という言葉が氾濫している。たしかに面白さは価値であるには違いないが、しかし、面白いか陳腐かという判断は評者がもっている知識網や興味に左右される主観的なものであり、「面白い論文を書きなさい」というアドバイスは初学者への指針として無価値である。
わたしたちは最終的に、顔の見えない査読者から OK をもらえるような論文を書く必要がある。だからアーギュメントの良し悪しを「面白いかどうか」という曖昧な基準で判断すべきではないし、もしあなたが研究者を目指すなら、「誰かが面白がってくれたらいいな」といった淡い期待で研究プロジェクトをたてるのはリスキーであるだけでなく、プロフェッショナルではない。
だが本書の論文の定義は、こうした現在日本で流通している論文観と異なっている。そのもっとも重要な相違は、本書が 論文に問いは必要ない と主張する点だ。問いは、あってもかまわないし、ある場合が多いし、効果的に用いることも可能だが、 問いの有無は論文の成否における条件とは本質的に関係がない。
「問いは必要ない」ということについて、具体例で考えよう。本書は「論文とはアーギュメントを論証する文章だ」というアーギュメントを提出した。そのとき、たしかにわたしは「論文とはなにか?」という 問い を最初にたてたが、しかし問いをたてずに、いきなり「本書では論文を定義する。論文とはアーギュメントを論証する文章である」と主張しても、まったく問題なく成立するのである。 つまり問いとは 主張内容から逆算していつでも形式的に生成可能 なものにすぎない。ここで問いの有無は、あくまでレトリックと効果の問題にすぎないのだ。
この「論文には問いが必要である」という論文理解には、じつは二次的な弊害がある。それは「問いをたてて答えるというフォーマットで書かれた文章」という定義が、論文の成立における 十分条件であるという誤解 を招いてしまうということだ。
前章の末尾でも「好意的だが懐疑的でもある仲間との会話」という学術活動のイメージを引用したが、アカデミックな価値の有無を捉えるにあたってこの「会話」という比喩はとても有益である。この「会話」とは、 特定のトピックに興味をもつ論者たちが現在どのようなことを話していて、現状どんなコンセンサスが取れているかという、トピックの周辺をとりまく意見の総体のようなもの だと考えてほしい。
もちろん引用には先人に敬意を払うとか、あるいは「ちゃんと勉強しました」ということを先生にアピールするとか、いろいろな機能がありうるが、それが 不可欠 である本質的な理由は、 他人の意見を引用しないかぎり自分のアーギュメントにアカデミックな価値があるということを示すことが構造的に不可能である ためだ。 あなたは自分の意見に価値をもたせるために、だしぬけに奇抜なことを言っても無駄である。それは面白そうではあっても客観的には価値評価できない意見として、宙に浮いてしまうのだ。あなたは誰が読んでも「これにはアカデミックな価値があるらしい」と判断できる形式で自分のアーギュメントを表現する必要がある。そのためには、 現行の「会話」を整理することでコンテクストを用意し、それと自分のアーギュメントとの関係を述べなくてはならない。
アカデミックな価値は、多くの読者が「面白い」と思ったときに発生するのではない。それは、 先行研究を引用し、自分のアーギュメントが現行の「会話」を更新するものであることを示すことによって、自分でつくるもの である。それを評者が間違いなく把握できるように書くことは、著者の責任なのだ。
あたりまえだが、すでに誰かが言った意見を反復することに価値はない。ということは、あなたは「会話」に参加しながら、なにかしら新しいことを言う必要があるわけだ。そのときあなたは、「こういう要素も考慮すべきである」といったマイルドなものであれ、あるいは「現状の理解は間違っており有害でさえある」というアグレッシブなものであれ、とにかく現行の「会話」が なんらかの意味で不十分 であると言わざるをえない。そこにはかならず一種の批判が、否定のモメントが介在することになる。
論文の主張を否定することは、どんなに無知な者にでも可能な操作である。だからそれは濫用すべきではなく、わたしたちは なぜ先人の知見を否定・批判することが重要なのかをきちんと説明する責任がある。 これは初学者には難しく、はじめから気にしすぎる必要はないが、はじめから知っておいてもよい態度ではあるだろう。
引用と批判によってアカデミックな価値をつくるとき、 批判対象となる意見 A がひろく受け入れられたものであればあるほど、あなたの主張 B の潜在的な価値は大きくなる。 ごく少数しか信じていない意見をひっくりかえしても、「誰もそんなこと信じてないよ」と言われて終わりだからだ。さきに「例が有名である」ことが重要であると簡単に触れたのはこのためである。
もちろん同時に、影響力のある意見というものは一定の妥当性をもっているから受け入れられているのであって、 有名なテーゼであればあるほど批判は難しくなってゆく。 ではどのあたりが自分に可能な批判なのか、あなたが提出すべきアーギュメントはどのくらいの価値をもつべきなのか――かくしてわたしたちは、「アーギュメントを鍛える」という問題にべつのルートからふたたび到着したことになる。
マイトがこのような図を考案したのは、学術活動というものをイメージ化して捉えるためである。この図が主張していることを言語化すれば、それは 人間の知識の総量をちょっとだけ拡大する仕事が研究論文だ というものだ。知識の専門性を尖らせにとがらせた結果として、円の形状をほんのすこしだけ変化させた瞬間――つまり人類にあらたな知見をもたらすことに成功した瞬間――そこに論文としての価値が発生する。つまりマイトはこの図で、アカデミックな価値とはどういうものかをビジュアライズしようとしているわけだ。
この例からわかるのは、 人文学の機能のひとつは「常識」を刷新することだ ということだ。 マイトの図では円の中心に常識が、外縁に専門知が位置しており、専門知を更新するのがアカデミックな価値の条件になっていた。しかし人文学においては、むしろ 円の中心にあって疑われもしないような「常識」をひっくりかえすような仕事にこそラディカルな力が眠っている――つまり、アカデミックな価値が大きくなる可能性を秘めている。
ここで重要なのは、この方針でいけば学部レベルでも全員が査読論文として出版可能な文章をレポートとして提出できるかどうかという点ではない。そうではなく、 そもそも論文とは、アーギュメントとは、引用とは、アカデミックな価値とはなんなのかを正しく理解・把握したうえで期末レポートなり卒論なり査読論文なりに取り組むべきだ という点だ。それを知ったうえで失敗しないかぎり、その執筆から論文について学ぶことはなにもないからである。
わたしはベルチャーと野矢には肯定的に、マイトと戸田山には否定的に言及した。しかしそれは、わたしがマイトよりもベルチャーに、戸田山よりも野矢に好意を抱いているからこうなったのではない。4人とも論文について素晴らしい議論を提出しており、わたしは彼らの仕事をどれも尊敬している。それらは わたしの議論を展開するさいに必要かつ有益だったからこのように引用したにすぎない のであって、やろうと思えば、ベルチャーと野矢のべつの箇所を引用してそれをディスりながら書くことだってできたわけである。 経験の浅い論者は批判を、なにかスキャンダラスな行為だと考えてしまいがちである。 だがすでに述べたように、アーギュメントのひとつの条件は反論可能であるということなのだった。批判的引用とは敬意の表明の一形態なのであり、その論文や書籍に価値がないという主張とは異なる――それどころか、まったく正反対である。価値があるからこそ引用・批判して、その基礎のうえにアーギュメントをたてるのだ。
だからアーギュメントは、「たしかにそのとおりだ」でも「それは違う、なぜなら……」でもよいが、ともかく当該の「会話」に参加している論者たちからリアクションを引き出して会話を進めることができれば――つまり引用されて次の「会話」につながれば――成功なのである。
差別用語をあえて用いてその意味合いを批判的に捻じ曲げるこうした行為を、人文学では reappropriation と呼ぶ。これは直訳すれば「再所有する」という意味だが、「奪用」という訳語はその「差別者から用語を奪う」という意図をうまく掬っている良い訳である。近年では障害者が日本語でいえば「かたわ」に近い差別用語にあたる crippled を用いて、新しい学問領域である障害学を crip studies(かたわ研究)と自称している。一般的には差別用語を用いないことが社会的正義の実現につながると考えられがちだが、差別用語をあえて用いる攻撃性にこそラディカルさの可能性は宿りうる。
これらはすべてパラグラフ・ライティングの正しい理解である。だが日本の論文執筆ノウハウ本は、どうもこれらを「論文という形式の文章を書くさいに守らなくてはならない規則」のようにして教える傾向にあるようだ(なんと日本的なのだろう!)。だが パラグラフ・ライティングを守って書いたからといって、だれも褒めてくれはしない。
そもそも初学者にとって難しいのは、頭のなかにある散漫なアイディアを数千・数万という字数の文章へと組織化することにある(これはとても重要である)。いっこうに増えないワードの文字数を見ながら、「もうアイディアは吐き出しきったのに、いったいどうやってあと3000字も埋めろっていうんだ」と途方に暮れた経験を、多くの人がもっていることだろう。
あなたは本格的な学術誌に載る1万とか2万字の論文がいくつのパラグラフでできているか知っているだろうか。 じつは、だいたい20から30あたりが相場なのである。もちろんこれも分野とスタイルとフォーマットによるわけだが、ともかく、あなたは20くらいのパラグラフをしっかりと書くことができれば、それはもう分量的には査読誌に掲載される論文の条件を満たしたことになる。数千字のレポートなら、一桁で済むだろう。
論理は、むしろ閃きを得たあとに必要となる。閃きによって得た結論を、誰にでも納得できるように、そしてもはや閃きを必要としないような、できるかぎり飛躍のない形で、再構成しなければならない。なぜそのような結論に達したのか。それをまだその結論に到達していない人に向かって説明しなければならないのである。 1
ここには論文という文章がもつ、ひとつのパラドックスのようなものがある―― 論文は飛躍せずして飛躍せねばならない というのだから。論文の結論じたいは飛躍をともなうアイディアでなくてはならないが、その飛躍は論理によって解消されなくてはならないのだ。
野矢のいう「飛躍」が、本書が述べてきた「自明なテーゼはアーギュメントと呼べない/アーギュメントとは論証を要求するテーゼである」という内容と同じだと気づいただろうか。ここで野矢は「飛躍」と「論理」という言葉で、アーギュメントと本文の話をしているに等しい。 論文とは、 イントロで飛躍したアーギュメントを提示し、本文の論理的なパラグラフでその飛躍を埋める文章 である。これが、現在のわたしたちのアーギュメント「論文とは、アカデミックな価値をもつアーギュメントを提出し、それが正しいことを論証する文章である」の後半部分「それが正しいことを論証する」の具体的な意味だ。
まさしく「論理の飛躍」を論理によってなだらかに「ならす」ために、たくさんのパラグラフが必要になるのだ。
「本文」は論理が支配する領域であり、誰が読んでも最終的にはアーギュメントの主張内容に納得できるよう、無理なく、ミスなく、ゆっくりと論証しなくてはならない。 本文はミスってはいけないセクションなのに長いから難しい のである。そこでは、ダイレクトに執筆の実力が問われる。
「1つのパラグラフは1つのトピックをもたねばならない」――この原則をユルく意識するのではなく、徹底的に厳密に従ってみよう。そうすることで、あなたは気になったトピックを「面白そう」的に曖昧に漂わせておくのではなく、「これはパラグラフになるか?」というプラクティカルな基準でジャッジする視点 を得ることができる。
第一のルールの2つめの側面――「1つのパラグラフで2つ以上のトピックを述べてはならない」――を思い出そう。このルールに厳密に従うなら、あなたはアンパンマンについて言うことが色々あるからといって、「アンパンマン」という単独のトピックについて何段落も書くべきではない。ただし、それはたんに冗長だからという理由ではない。パラグラフが複数にまたがる場合、たとえば「アンパンマンの男性性」「アンパンマンの女性性」というように下位区分をつくり、 パラグラフと同数の独立したトピックを用意せねばならない ということだ。
いまわたしは、一般的なパラグラフ・ライティングの定義よりもキツいルールを提案している。一般的に言われる「トピック・センテンス」は、たんにトピックを提示するだけのセンテンスではなく、 論証を要求するテーゼであるべきだ と言っているのだから。だから以後、「小テーゼ」とか「トピック・センテンス」というフレーズのかわりに、パラグラフの冒頭に置かれるべきセンテンスを本書では「パラグラフ・テーゼ」 と呼ぶことにしたい。
パラグラフを育てているあいだは、トピックのメモは散漫なものになりがちである。それでよい。しかし一定程度のメモが溜まってきたら、それらをパラグラフへと統合するための軸として、ひとつのテーゼをつくる。それは「パラグラフ・テーゼをつくるのだ」と意識してつくるものであり、 メモから自然と発生するものではない。
Notes: この制約のかかった意図的かつ不自由な脳内運動という感覚が持てるかどうか。そのための知的トレーニングなんだろう。
ここでまず注意してほしいことは、「アンパンマンは~」で始まる3つの項目は、すべて 論証を要求しない内容である ということだ。アンパンマンは男で、平均よりも強くて、作中で暴力をふるう。それは『アンパンマン』を見れば誰もがただちに観察可能な事象であり、「論証」する必要はない。いいかえれば、これらはテーゼではなくファクトである。そして、 ファクトに飛躍はない。
つまり、パラグラフにおいては一文目に小さな飛躍をともなうパラグラフ・テーゼが置かれるわけだが、そのほかの文には基本的に事実と論理しか書いてはいけない。 パラグラフ・テーゼの小ジャンプを、事実と論理によって埋める のである。
逆にいえば、わたしたちはパラグラフ・テーゼをつくるさい、 メモに書かれているファクトをロジカルに組み合わせれば論証できそうなテーゼを捻り出せばよい のである。これが「ひとつのパラグラフで論証可能な小テーゼはどのくらいか?」への回答だ。そもそも論証につかう道具であるメモからテーゼをつくるのである。
このように、パラグラフという単位は強力な執筆ツールとして使うことができる。このメソッドでしばらく練習すれば、あなたはそれが字数稼ぎなどというチャチなものではなく、論文という特殊なジャンルの文章を執筆するために不可欠の単位であることに気づくだろう。パラグラフ、それは 思考のリズムを手に入れるための単位 なのだ。
多くの人は、自分では論文を書けなくても、読むことならある程度できる、と考えている。スラスラと正確に読めるかどうかといった話ではなく、ようは 執筆力よりも読解力のほうが高いはずだ という想定だ。 しかし本書の核にある認識のひとつに、「書けないやつは読めてもいない」 というものがある。書けないということは読めないということなのであり、読めないということは書けないということなのだ――そう考えたほうが、執筆の役に立つ。
じっさいの執筆の場面を考えてみよう。わたしたちは文章を、「よし、書けてるな」とか「どうもうまく書けていないぞ」などと自己判断しながら書いてゆく。つまり、 わたしたちは書いたそばからそれを読者として読み、出来不出来をジャッジして、修正しながら書き進めてゆく。 自分の書いた文章であっても、わたしたちはそれを読者として客観的に読みながら書いてゆくほかない。そのとき、書く行為と読む行為は、ほとんど見分けがつかなくなる。書いたものの良し悪しを判断する主体は読者としての自分なのだから、あなたの執筆力は、あなたの読解力そのものである。ようは、 読むときにも書くときにも使っているアタマは一緒 ということだ。
そして、よくよく考えると恐ろしいことは、 ふだん自分の読解力というものを客観的に測定する機会はほとんどない という事実である。そもそも自分が読めているかどうかの判断そのものが自分の実力に依存しているのだから、読めているのかいないのかを独力で客観的に判断することは難しい――というか、構造的に不可能である。 だから論文執筆の学習者にとっては、「自分ではよく書けていると思った文章を実力者に批判される」 といった…
ともあれ、論文を読めも書けもしないという段階においては、いきなり無手勝流で書く練習をして空回るよりも、 完成された既出版の論文をきちんと読む トレーニングをさきにやったほうが…
この作業の結果として、おそらくほとんどの初学者の文章は、第一に パラグラフの平均的な長さが短く、したがって第二に、 パラグラフの総数が多い ということが判明するはずである。これが初学者の論文とプロの論文をくらべたとき如実にあらわれる、決定的な違いのひとつだ。
第一に、パラグラフが短いということは、そのパラグラフで提示する パラグラフ・テーゼの論証が不十分である ということを示唆している。査読をクリアできる書き手は、ひとつのパラグラフ・テーゼを論証するために、初学者よりもかなり多くの字数を割いているのだ。パラグラフの短さは、思考と議論の粗雑さの現れである。
第二に、段落の数が多いということは、ひとつの論文で提示する パラグラフ・テーゼ(トピック) の数が多すぎる ということを示唆している。たいてい初学者は、色々なトピックについて(論証不十分なまま) 書きすぎている。パラグラフの数の多さは、議論のフォーカスが定まっていないことの現れである。
第一に、これによってあなたは書くまえから、最終的に何字のパラグラフをいくつ書けば字数が埋まって論文が完成するのか把握しておくことができる。数万字の論文執筆という途方もない作業が、 決められた数のパラグラフをつくる作業 へと――さらには同数のトピックを見つける作業へと――分解されるというわけだ。
第二に、ふだん自分が書いているよりも多くの字数を強制的に費やす練習を積むことで、 ひとつのパラグラフ・テーゼに多くの字数を割いてゆっくり丁寧に論証する感覚 が身につく。だから字数は、最終的にもっと短く調整してもよいのだが、まずはふだん自分が書いているパラグラフの平均値よりもかなり長く設定したほうがいいだろう。
第三に、字数を固定してワンパラグラフごとにワントピック(テーゼ) を完結させるトレーニングを積んでゆくと、徐々に 思考のリズムを字数単位でコントロールできる ようになってくる。わたしはこれを「パラグラフ感」と呼んでおり、これが身につくと、どんな字数制限にもトピック数とパラグラフの長さの調整で対応できるようになる。
このトレーニングの主眼はセンテンスを正しく記述できるか否かよりも、パラグラフをセンテンスにバラして一文一文の機能を言語化してみるという作業によって、 文章を読み書きするときの注意力や感度を養う というところにある。だから、正解できたかどうかに拘泥する必要はない。
もしまわりに同志がいるのなら、 数名で同じパラグラフを解析して回答をくらべてコメントし合う という勉強をつよく薦めたい。論文全体を読んで要旨をまとめる作業などよりも、みるみる実力がつくこと請け合いだ。
査読を通すという目的において第一に必要な実力とは、査読者に「面白い」とか「賢い」と思わせることではなくて、 冒頭から「お、こいつは書けるな」と思わせ、そのままの印象で読み切らせる力 である。本章の長いパラグラフを書くためのトレーニングは、この実力を養うための方法論だ。
くりかえすが、このトレーニングの主眼は「正解」できるかどうかではない。あくまで目的は、各要素の機能を言語化し、抽象度の相対的な上下運動への感度を養うことである。
ここで、いささか気づきにくく、かつ重要な点がある。それは、 ファクトについて周辺的な情報をいちいち盛り込んでいる ということだ。たとえば「従軍していた」というエピソードでも済ませられるところで「中国でのプロパガンダ紙芝居」と具体例を出したり、初出の「アンパンマン」について「1969年に青年誌『 PHP』に収録」と詳述したりしている。 じつはこうした細部を盛り込むことは、初学者にとって想像よりもはるかに難しい。 調べた情報をパラグラフで「つかう」 のは簡単なようでいて、じっさいはトレーニングが必要な知的操作であり、意識的に身につける必要があるテクニックなのだ。
これは姑息な字数稼ぎだと思うかもしれないが、まったくそうではない。こうして細部を積み重ねてゆくことでこそ、一文一文のもつ情報量が増え、文章全体の重厚さは増し、あなたの文章は、 そのトピックに精通している専門家 のそれへと接近してゆく。それはつまり、読者の信用を生むということにほかならない。
上記のパラグラフ解析においては、センテンス内で「1から3」に抽象度がシフトしているとした箇所がいくつかあった。ようはファクトの提示の直後で、それがなにを意味するのか、なぜ引用したのか、 著者自身の言葉でいちいちレベル2から3の説明を挟んでいる わけだ。 こうしたレベル3から4のセンテンスで使われているのは、いずれも パラフレーズ というテクニックの一部である。
このテクニックもまたセンテンスの量を増やすのだが、これもやはり、ただパラグラフを長くするだけの技術ではない。これらは書き手の解釈行為――「それはつまりこういうことなのだ」――によって記述を一段抽象的な次元へと移行させる操作であり、こうしたパラフレーズは、 文章がファクトの羅列ではなく筆者の思考のプロセスであるという印象をうみだす。
さて、なぜプロのパラグラフは長いのか。これにシンプルな回答を与えよう。それは 情報量とパラフレーズ が豊富だからである。いいかえれば――このいいかえがまさしくパラフレーズだ――初学者の文章は観察ばかりで思考のダイナミズムがなく、情報量が少なくてスカスカである。さらにいいかえよう。プロの文章は、賢くて詳しいのだ。
Notes: 間違ってないけど引っ掛かりがなくてつまらないのはこれ
もちろん理論上このパラグラフを改善することは無限に可能なわけだが、ひとまずここでの目的は 長いパラグラフを書くことへの抵抗を除去し、メカニズムに慣れ、なるべく意味ある記述のみによって字数を増やす方法論 を学ぶことである。
なんどもくりかえすが、ここで紹介しているテクニックはパラグラフについての守るべきルールではない。書けるようになるための足掛かりだ。 これは手段である。長いパラグラフを自在に書けるようになったなら、それぞれに書きやすいスタイルを模索すればよい。
わたしはこのとき、「いや、でももっと読んだんです」などと無様な言い訳をしたように記憶している。それは本当にそのとおりだったのだが、じっさいは100本も読んでいなかったので、いずれにせよアウトであった。が、ともあれ、ここには重要な問題がある。それは、 読むことと引用することには距離がある ということだ。読んだからといって引用できるわけではないのである。
わたしの場合は怠惰ゆえに生じた失態であったわけだが、しかし問題は勤勉でさえあれば解決するわけでもない。わたしの対極にいる真面目な学生に、読んでばかりいて執筆に移れず、もはや 先行研究を精査する作業が自己目的化してしまう というパターンが頻繁に、 きわめて頻繁に 見られるのである。その様子はあたかも、読むことによって書くことから逃避しているかのようだ。
アーギュメントのなんたるかを正確に理解していない者は、そもそもアーギュメントに該当する箇所を読んでもそれがアーギュメントであると判断することができない。 たとえば「これはアンパンマンとジェンダーについての論文なのだ」という感じで、トピックだけを抽出してしまうのだ。これもまた「書けないやつは読めてもいない」の例である。
ショアはもう一段階プロセスを踏むようアドバイスしている。それは、 アーギュメントを見つけたら自分の言葉でパラフレーズし、それを書き記せ というものだ 2。彼はこのアドバイスをくどいくらいにくりかえしているのだが、じっさいこれは先行研究との対話が仕事である研究者にとってもっとも枢要な能力を育てるために、きわめて効果的なトレーニングである。漠然と「こういうことかな」と頭のなかでいいかえるのではなく、文として書き記すことが大切だ。 アーギュメントを発見し、それを自分の言葉でパラフレーズしておけば、「あの論文読んだけど身にならなかった」といった悩みは解消される。上記の作業はとりもなおさず、「どういう論文だったか」という問いに一文で答えを出すための読解方法 なのだ。
じつは、そのとおりなのである。 先行研究をみずからの議論に組み込むという目的の達成にあたっては、本文を通読する必要などまったくない。 これを不誠実だと感じるひともいるだろう。だがそれは間違っているどころか、むしろ正反対である。なぜなら、ほかならぬ著者にとって論文中もっとも重要な要素はアーギュメントなのだから、アーギュメント以外の記述を引用するよりも、 同意するにせよ反論するにせよアーギュメントをダイレクトに議論に組み込むのがもっとも誠実な引用の形式 なのだ。 多くの初学者は文章を丁寧に通読して、自分が気になった鋭い洞察をふくむパッセージを好意的に引用したり、あるいは瑣末なミスを批判したりすることが引用だと考えている。それらは間違っているわけではないが、 論文の仕事はあくまでも先行研究のアーギュメントを正確に把握したうえで、みずからの新しいアーギュメントによってアカデミックな会話を一歩さきに進めることだ という真の目的を見失ってはいけない。
研究が進んでくると、把握しておかなければならない研究書は4桁にのぼる。そのすべての内容を暗記しておくことなど、あたりまえだが不可能だ。そこで必要なのは、 各書物をアーギュメントへと圧縮し、各研究がどのように互いにつながっているのか、そのネットワークを脳内に構築すること である。
この能力は短い論文の執筆に必須の能力ではないので、本書では解説しなかった。ただひとつ「通読」とはなにかを知るためのトレーニングとして挙げておきたいのが、 書評の執筆 である。 本書で解説したように、書籍全体のアーギュメントと、各章のアーギュメントさえ発見できれば、研究書の骨子は把握できたことになる。通読について考えるにあたっては「それ以外の箇所も含めた通読から得るべきものはなにか」が問題になるわけだが、そんなものいくらでもある。そこで、字数制限のある書評を書いて、「あえて書評に盛り込むとしたらアーギュメント以外になにを書くか」 と問いながら読むのだ。
パラグラフ・ライティングのルールで書かれる本文においては、とにかくミスがあってはいけないのだと強調した。これが「守り」の姿勢であるとすれば、 イントロでは読者にその論文の価値を売り込む「攻め」の姿勢が必要になる。「どうやらこの論文のアーギュメントには価値がありそうだ」と思ってもらえてはじめて、その主張内容の論証に耳を傾けてもらえるのだから。
そして第二に、 抽象度や視点を変えながらアーギュメントを何度かパラフレーズする ことで、主張内容の確実な理解を促すこと。
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