2025年5月の日記
忙しい❗️
忙しいならこんな文章書くなよという話ではあるが、息抜き……
きちんと朝の支度をするとか、日中眠くならないよう生活リズムをコントロールするとか、キャパオーバー気味になっている
毎日ランニングにはまとまった時間を割いているが、バスがめったに来ないから走っても時間があまり変わらないのと入眠がスムーズになるからという理由でやっている
この年にやってやっとtodoリストとかでタスク管理すべき理由がわかった というかないと立ち行かない 今まで温室で暮らしてきたんだなと思った
それでも今見えている希望は、こうすれば明日は少し楽になるみたいな改善を少しづつ積み上げていくことで徐々に余裕が得られていくということ 習慣化が人間の最大の武器
私は高所恐怖症よりは低所恐怖症が強いな
というか高低関係ない、下を向くのはよくて上を見るのは怖い
足元が見えなくなるのが怖い
地面が好き。地球の圧倒的な質量による安心感がある。ビルの上から飛び降りてみたいとすら思う。死にたくないけど
いうていざバンジーやるとなったらビビるのかな わからん!
上には何もなくて怖い
空、何もなさが無限すぎる 宇宙に天井があってほしい
「実存」を意識するのが怖くて、生活に埋没して生きていることの恐ろしさを忘れたいので、「すいません、私に無限見せないでもらえますか」と言いたくなる
くだものジュースが好きすぎる
風邪ひいたとき一番恋しくなるものは果物のジュース
マナー、わからん
店員さんにありがとうございますって必ず言うようにしてるけどどう思われてるのかわからない
私は自分の「施されたらお礼を言う」という倫理観を金銭関係の場にも持ち込まないときまりが悪いのだけど、向こうとしては煙たいのかな
前に元気に毎朝挨拶しあってた警備員の人、元気かな
あと、電車に乗るときはなるべく内側を定位置にしてるけど、通り抜けたい人としては邪魔なのかな
一番迷惑になりにくい場所ってどこだ……?
ドア横のスペースに滑り込む人けっこういるよね 私の父もそう これもいいのか悪いのかよくわからない
エスカレーターを歩く人、自転車で歩道を走る人、彼らのために道を開ける人
マナーとルールがズレてる状態、なんだかなあ、と思う
実用が最高の基準だというのも視野が狭いし、ルールを傘に着て押し付けるのも窮屈だ
エスカレーターに乗ることはすなわち「私はルールを守ります」「マナーを優先します」「ルールを守りますが、守らない人も尊重します」……という倫理的な立場表明である
私は階段が大好き
自分の足で位置エネルギーを稼ぐことに充足感を感じる
なるべく自分自身で動き続けたい欲求がある
階段は孤独になれるから好き
エレベーターとか、狭い箱でボタン押したり無言の応酬があるの"公共"すぎて好きじゃない
特に螺旋階段や折り返しや踊り場があったりする階段、空間としてとてもいい
登るためだけの空間ということで、一種の静謐さがある
立体的な隙間が好きなのかもしれない
橋は普通だけど、橋の下はすごく好き
電線も入り組んでいてけっこういい
外国人ラッパーがノーの構えと満足気な顔をする2枚の画像の隣に好きなものと嫌いなものを並べるミームってさ……
ドレイクミームというらしい
うまく説明しづらいけどなんか嫌いだなと思う
好き嫌いの表明を対立構造に乗っけるのが嫌なのかと思ったけどそれは自分も普通にやってるか
無理やり言葉にするなら、ミームや構文のおきらく拡散レールに乗っけて、遊びの体裁で強いジャッジメントを下してるのが受け付けない
発表ドラゴンが対立概念否定しだしたらさ、なんかさ……
手動で「bot」名乗るのカッコ悪い
現存する「◯◯bot」の8割はアカウント名「◯◯」だけにするか「◯◯専用アカウント」にしたほうが面白いしかっこいい
弟たちがscratchにハマっていて、(著作権および作者や見た人の感情的に)よくないこともしているのだけど止めるべきなのか
このよくなさは私も通過してきてるから言いづらい。だからこそ後で後悔するであろうことがわかるんだけど
兄という権力に止められるというのも卒業の道筋として望ましくない。痛い目見るなり自分で気付くなりしないと免疫がつかずもっとまずいことになりそう
scratchのコミュニティは年齢層若くクローズド気味だから、そういう砂場で一回怪我してもらうのがベストかなとは思うが……そこでよくなさに気づけないまま発酵されても困る……
弟、プロセカをやっていて、初音ミクの痛Tを持っているし、フィギュアも欲しがる
「推し」みたいなありかたにあまりにもまっすぐで、眩しい
街が一面広告にコーティングされていて、広告を見ることから逃れられないのは、ヤバくないか?
いくら払っても「見ない」はなかなか買えない
ある種と広告に触れるだけで人の無垢さみたいなものが削がれ汚れるような気がする 「あのキャラにはこの広告見てほしくないな」みたいなのありません?
スピリチュアルとか疑似科学疑似宗教の類、規制しろとは言わんが、許されすぎじゃない?と思う
電車バス広告のあれとか……某ホテルのあれとか……モゴモゴ……本屋も売れてる啓発書の棚とかけっこうさ……モゴ……占い師ってさ……モゴ……
まあ宗教と生活文化は不可分だから言い出したら線引きが難しいのはあるが
自然科学パンチで手放しに否定することが正しいとは思わんが、それはそれとしてある程度慎んでやってほしい 没入するとマズいことになりやすい
エンタメとして、個人的な心の救いとして、存在するべきコンテンツではあるが、実際弱者を利用して私腹を肥やすゲスい構造になってるところがある
泣く人が一人でも減って、笑える人が一人でも増えるような社会であってほしいと思う どうすればいいとかはうまく言えないけど
常に一番いい姿勢を心がけている
私は家では椅子を使わなくて、バランスボールのみ使っているため非常に姿勢がいい
姿勢いいと自己肯定感が高まるのでおすすめです
これは自意識というか、根っこに「ハッタリはかますだけ得」というヤンキー根性がある 真面目ヤンキー
底を見せたくないという浅ましさ
なにかを話すこと、なにか表現すること、なにかすること、なにか着ること、それは自分の底を見せることである
限界は自分にも見せたくない
物語、特に漫画だとキャラが極端に追い詰められる描写が多くて、自分のリアルの緩慢な鬱屈がちっちゃく相対化されて気が少し楽になることがあるな
どんな嫌なことがあっても「デンジよりはマシだしな……」になる
漫画だと誇張された嫌すぎることが起き、鬱漫画ならその嫌さを煮詰めるし、少年漫画なら覚醒するなりするし、
苦しみや立ち直りが戯画化されすぎてリアルとかけ離れているとは思うけど、リアリティだけの漫画があっても面白くないだろうしな……とも思う
自分は「できなさ」がアイデンティティになってるところがあってよくない
他人よりはっきりとできないことがいくつかあって、それが自分自身のパーツだと思っている
偏食で口にすると反射で吐いてしまう食材がけっこうある
だいぶ克服したものの吐瀉を噛み殺す術を会得しただけなので、新しい食べ物に手を出すリスクは依然高い
注射を受けようとすると身体の震えが止まらなくなり、麻酔なしで簡単な手術を受けたことすらあったのだけど、いつの間にか平気になっていた。そのときにちょっとしたアイデンティティ喪失を感じた
こういうものをマイナスで捉えてもしょうがないから自分の個性だと思っていたが、克服が喪失感にまでつながるほど染み付いていたとは意外だった
観光が得意じゃない
今まで一人でいろいろ観光地行く機会はあったのだけど、どれも観光失敗してる
「観光失敗」とは、何もアトラクションを享受せず、テクテク歩いただけで、「その地ならでは」が一切なかったことを指す
ケチなんだろうな なんか観光地見つけても入場料ぶん楽しめる気がしなくて素通りしちゃう
楽しんで元をとらないとという勘定が入っちゃうと楽しめなくなる
グルメも、先述の偏食もあり常軌を逸した保守性を持っているためサイゼに行って終わる
美術館博物館動物園水族館の類は好き あれは情報量が多くて展示されたものや展示してくれた人と話すような感覚
いつになったら自分は熟れるのだろう
「大人になる」ではないけど、さすがにこの年までには確固とした自己ができるだろと思ってたのだけど、そうでもなく地続きのふにゃついた自分がずっと伸びていくだけだった
完熟したとしても腐っていくだけだし、ほどほどに……
「大人になる」で言うと「非可逆性への恐れ」みたいなのが薄れていっている感覚はある
昔はゲームも取り返しがつかない要素は絶対に逃したくない派だったし現実でも取り返しがつかないことを自分からすることは避けてきた
でも時間は勝手に経って自動的に取り返しがつかなくなっていくので、慣れてしまった
こういう慣れが重なって最終的にいつか来る死を受容しちゃうんだろうなと思う
物語でも現実でも、人は生老病死と向き合って徐々に死を受容していくものだけど、そういうのを耳にするたびに「ちょっと!私まだ受容できてないんですけど!」と置いていかれたような気持ちになってきた
死が怖いと親に話したときも「大人になればけっこう平気になる」みたいに言われて、でも捉え方を変えただけじゃ死というものの性質は何も変わらないのだから恐ろしさは消えないじゃんと思った
そういう「置いていかれた感」「ごまかされた感」が重なって、死ぬまで死を受け入れてやるもんかという意地になっている
大いなる引力に抗っていきたい。とびっきりの恨みを刻みつけて散りたい。抗いきれないとしても。