第9章 影の中を歩く
文化が私たちを愛へ導く方法
「詩の中にニュースを見つけるのは難しいが、とはいえ男達はそこで見つかるはずのものの欠如により、毎日不幸に死んでいる」
—ウィリアム・カルロス・ウィリアムズ
1億年前に起こった大脳辺縁系の進化は、感情と関係性という発光する力を持つ動物を生み出し、その神経系はツルのしなやかな鎖のように互いに絡み合って支え合うように設計されました。
しかし全ての人の人生は、ギリシャ劇のように、儚さ・弱さを持ちます。
それぞれの英雄的な強さは、悲劇的な欠陥というその鏡像を見つけます。 感情的な生活を構成するのは、神経スキルです。
大脳辺縁系の脳は、単純な生物には不可能な豊かな経験を与えてくれますが、それは同時に哺乳類を苦痛と破壊にさらします。
ワニは損失の痛みを決して感じず、ガラガラヘビが両親や子孫から分かれた苦しみによる病気や死を経験することはありません。しかし哺乳類は経験することができ、実際にそうします。
感情的な生活を司る神経構造は無限に順応性があるものではありません。 恐竜の体がある一定の温度の範囲内でだけ生きられるように、辺縁系の脳は、哺乳類をある特定の感情の状態に縛りつけます。
空が暗くなり、気温が下がると、巨大な爬虫類は姿を消しました。
もし私達が、私達が受け継いだ感情という遺産の限界を超えた状態まで自分たちの環境を押し上げてしまえば、私達の没落も同じように現実化してしまいます。
私達の心が辺縁の共振を使ってお互いを探し求めていること、
私達の生体リズムが辺縁による調整という呼びかけに対して反応すること、
私達は辺縁の修正により他者の脳を変化させること
これらが、私達が他のあらゆる人間の側面よりも、人同士の関係性に重きを置く理由です。
私達はそれがどのように選んだ形式によるものだとしても、結婚し、子供を育て、社会を組織します。全ての選択は(それらの程度は異なるにしても)、心が持つ変わらないニーズに適応するか、それを軽蔑します。
一見したところ真っ直ぐに見え、やる価値があるように見える行動であっても、それは感情的な苦しみへと様々に分岐する可能性があり、それを意図的に選択できる人はいません。
感情の声に気づく力には個人差があります。
それを掴む人は良い人生を生き、
それを掴まない人は避けられない結果に苦しめられます。
同じことは、より大きな社会にも当てはまります。ある文化は数十年か数世紀の間に変容しますが、人間の性質はまったく変わりません。
したがって、文化的な要求と感情的な緊急性との間で起こり得る衝突の発生しやすさは重要です。ある文化は感情的に健康であることを促進し、別の文化はそうしません。
現代アメリカを含むいくつかの文化は、充実感とは反対の活動や態度を促進しています。
アメリカ文化は、私達の辺縁系の弱さを守る代わりに、愛の本質と必要性とを目立たないものにすることで、それらのこと(充実感とは反対の活動)を拡大しています。その失敗の代償は高く付きます。
全ての個体は光を当てると影を作りますが、感情の構造についても例外ではありません。
人の心は早朝の道路であり、その半分は日の当たる遊歩道です。
そこでは恋人たちが散歩し子どもたちが遊びます。
もう半分の側ではビロードのようになめらかな影をまとっています。
その暗い側では、悲しみと悲劇という花、そしてときには悪という花が育っています。
最近の子供
乳児は親を近くにいさせるために全力を尽くします:
親が近くにいるときにはじっと目を見つめ、アウアウと喋ります
親が離れようとすると身をよじったりしがみつきます
親がいないときは大きく泣き叫び、彼らを吸い寄せる真空力を発生させます
乳児がもつ誘惑という武器は、通常ほかに比べるものがないほどの成功を収めます。 親は、赤ちゃんの中に小さな暴君と魅惑の力を持つ魔法使いとを見出します。
彼の小さなゲップとうんちはせわしない心配の元となり、
彼の安心した様子は親に至福の喜びを与えます
赤ちゃんが親を近くに居続けさせる能力は、気まぐれに進化したのではなく、辺縁系の必要性にかられて進化したものです。 計り知れないほど長い年月の経験は、
赤ちゃんが感情のチャネルを開いたままにして自身の生理状態を調節し、
自分の開発途上の心を形作るという指示を、脳に与えました。
アメリカ人は伝統的に、人生最初の数時間に起こるこのような接続を夜に切断してしまいます。私達の文化は、赤ちゃんが親といっしょに寝るべきではないと考えています。
乳幼児を夜にどこへ寝かせるかという問題は、激しい議論が行なわれたおかげで、国全体で意識されるようになりました。
アメリカの小児科医の多くは、子と親がいっしょに寝ることに対して眉をひそめています。スポック博士は何十年も前に、その記念碑的に影響力を持った著書「スポック博士による赤ちゃんと子供の世話をする方法」の中で以下のように警告しました。
「私は、どんな理由にせよ子供を親のベッドに入れないことが良識あるルールだと思う」
スポックは小児科医リチャード・フェーバーに比べるとまだ軽いタッチでした。フェーバーは親と子が同じ部屋や同じベッドを共有するということについて真剣な反対運動に取り組んできました。
フェーバーは、「大人が持つ渦巻くような性的モチベーションは乳幼児や小児に起因する」というフロイトのいつもの疑わしい説をその説の拠り所としていました。 フェーバーによれば、小さい子供たちは親が眠る場所を「あまりにも刺激的と感じ」ます。彼はゆっくりと次のように続けます
「もし子供があなたとあなたの妻の間に潜り込んでくることを許せば、つまりその子があなた方2人を分ければ、その子は自分があまりにも力強い存在だと感じて心配し始めます・・・その子は自分が2人を分ける原因になったのではないかと心配し始め、責任感を感じるかもしれません」
ここでの間違いは「成人視点の適用(訳注:adultmorphism、子供の行動を成人を記述する用語で翻訳すること)」つまり望遠鏡を逆さまにした方向で子供を観察し、子供が大人であるとみなしているということです。
子供を、小さく、静かで、成熟した感覚と心配事を持てる存在だと仮定しているということです。
もし赤ちゃんが20歳の若者のように考えることができるとすれば、その子はフェーバーのいう混乱、不安、怒り、罪の意識に苛まれるかもしれません。
その小道のもう一方の側には、進化心理学者と比較文化社会学者がいます。
彼らは、親子が別々に寝るというアメリカの習慣は、世界的に見ても歴史的に見ても特殊なものだと言います。
世界中にいるほとんど全ての親たちは子供といっしょに寝るものであり、人間の歴史の中では一瞬といえる最近までは、別々に寝るということは非常にまれでした。
従って、この異常な夜の習慣の正当性を立証する責任は私達の文化の側にあります。
進化心理学とこれまで生き残ってきた常識とを重視する著名なロバート・ライトは、フェーバーにこう反論します
「フェーバーによれば、一人で寝ることを怖がる子供をベッドに入れることが問題なのは『親は本当の問題を解決していない。その子がそんなに怖がるには必ず理由がある』とのことです。そのとおり、必ず理由があります。その理由として考えられる1つとしては、何百万年もの間、母親が赤ちゃんといっしょに寝てきたことによる自然選択により、その子の脳がデザインされた、ということが挙げられます。当時、赤ちゃんが夜に自分一人でいることに気がつくということは、何か恐ろしいことが起きたということーたとえば母親が獣に食われてしまったなどーを意味することが多かったでしょう。そのような場合、その子の脳はその状況に対応するために必死に泣き叫び、それが聞こえる範囲にいる仲間がその子を発見することになったのでしょう。一言で言えば、その子が一人ぼっちにされるのを恐ろしがる理由は、実際にそのままにしておけば恐ろしいことが起こったからでしょう。あくまで仮説ですが。」
ライトが認めているように、現代世界は多くの点で自然ではありませんが、必ずしも有害ではありません。(訳注:現代の恩恵としては)セントラルヒーティング、頻繁な入浴、老眼鏡が思い浮かびます。睡眠の習慣は、健康に与える影響という意味で中立的な現代の選択の結果でしょうか?
フェーバーは、「家族でいっしょに眠りたい」という欲求が、解決するために「専門的なカウンセリング」を必要とするかもしれない心理学的な障壁であると警告しました。
彼はその主張を補強するために、フロイトの理論に含まれる事実ではなくその切れ端を再利用しました。
しかし、睡眠についての研究グループは、親子が分かれて眠ることが生理学的なリスクを引き起こす可能性があると報告しています。 赤ちゃんは、外傷や病気の兆候がないにも関わらず、静かに眠ったまま突然死んでしまうことがあります。
それはあたかも、そのちっぽけな体に入り込んだ魂があまりにも生き生きとしているのできっちりと固定されず、魂の世界に滑り落ちて消えてしまったかのようなできごとです。
かつては「ベビーベッドの死(crib death)」として親たちを恐れさせていたその事象は、現在ではSIDS(乳幼児突然死症候群、Sudden Infant Death Syndrome)と呼ばれています。 SIDSの原因は今でも謎のままです。
いくつかのケースにおいては、それが隠蔽された殺人事件であると再分類されましたが、SIDSのほとんどのケースについては、物理的異常または状況的な異常は見つかっていません。
しかしその死亡率は社会によって異なり、文化的な要因があることを示唆しています。
アメリカは、医療の先進性と進んだ幼児ケアを持つにも関わらず、SIDSの発生率が世界で一番高いのです:
出生1000件に対して2件のSIDSが発生していますが、
これは日本の10倍、香港の100倍です。
いくつかの国においては、この症状は事実上報告さえされていません。
睡眠科学者のジェームズ・マッケナと彼の同僚は、SIDSの謎に光を当てる前例のない研究を行いました。
彼らは、赤ちゃんが眠る環境、つまり何百万年にも渡る人類の進化の中で赤ちゃんに提供され続けてきた「母体との近接性」について研究しました。
マッケナは、眠っている母親と幼児が共有するものは、マットレスよりもはるかに多くのものであることを発見しました。
うとうととまどろんでいる母と子は、マッケナが生命を維持する機能を持つと考えていた生理的な同期性を示します。
「一時的に眠ったり起きたりする母と子の睡眠のタイミングはお互いに深く関係し合います」とマッケナは言います。「毎分ごとでも、または一晩を通しても、多くの感じ取りあうコミュニケーションが母子の間で発生しています」
ペアになった母親と赤ちゃんは、一人ぼっちである対照群と比べて、睡眠の最も深い状態になる時間が短く、覚醒している時間が長い傾向にありました。
マッケナが感じるところによれば、それは神経系による働きであり、その働きが幼児の呼吸停止を防止させているとのことです。
母子でいっしょに眠った子供もひとりで眠った子もともに母乳が与えられ、つねに上向きで寝かせられました。この2つの要素はどちらもSIDSを防ぐ要因です。
SIDSの発生率がもっとも低い社会はまた、母子がいっしょに眠ることが広く行なわれている社会であるということは、不思議なことではありません。
母子睡眠の分離を主張する人たちは、前世紀初めに優勢な心理学であった、パブロフ派により提唱されている子どもたちへの態度指針を持ち出してきました。
彼らが言っていた(そして今でもそう言っている)ことは、子供の苦痛に注意を払ってそれに報酬を与えることにより、それが再現される可能性を高める、ということです。
夜に一人にされる子供は、「報酬」をくれる人間の存在もなく、だんだん鳴き声を止め、やがて泣き止んで眠ります。
しかし睡眠は条件反射ではなく、犬が肉をみてよだれを垂らすこととは違います。ウトウトしている大人の脳は、90分ごとに異なる神経相を上下させ、その響き合うような動きは少しずつ長くなっていき、朝の目覚めの時に最高潮の長さになります。
朝の覚醒で最高潮に達する交響的な動きを徐々に長くします。睡眠は複雑な脳リズムであり、神経的に未熟な乳児は最初に両親のパターンを真似しなければなりません。
乳児は生まれたときからこれを知っています
赤ちゃんは通常、母親の左右どちらに置かれていたとしても、夜の間中母親の方を向き、耳と鼻と時には目を使って感覚刺激を飲み込み、自身の生体リズムを夜の間に調整しています。
一部のアメリカ人には奇妙に聞こえるでしょうが、親との接触が眠っている赤ちゃんの命を救います。大人の心臓の安定したピストンと定期的な満ち引きとしての呼吸が、若い命の内部リズムを調整します。
この古くからの仕組みに直観的に従い、母親は右利きでも左利きでも、左手で赤ちゃんを抱き、赤ちゃんの頭が自分の心臓の近くにあるようにします。この左右の偏りの原因が習慣的な理由でも文化的な理由でもないことは、ゴリラやチンパンジーの母親たちもこれと同様に生まれついての「左側に偏ったゆりかご(left-sided cradling)」の習性をもつことから明らかです。
家庭のベッドについての議論は、アメリカが持つ大きな問題の回りをダンスしています。
私達はどの社会よりも個人の自由を大切にしますが、その自律性を発達させるプロセスを重要視はしません。
あまりにも多くの場合にアメリカ人は、旅行者がベルボーイに荷物を預ける要領で、「自分でルールを決める」ということを人に埋め込めると考えてしまいがちです。
つまり、「子供に何かを一人でやらせることによりその子はそのやり方を学ぶだろうし、子供といっしょに何かをやれば、しがみつくことしか知らないモンスターを生み出すだろう」といった具合にです。
しかし実際には、早すぎるプレッシャーは、子供が持つ本能的かつ生物的な自己決定の能力を妨げます。 自立心の自然な成長とは、依存に対する不満や失望により起こるのではなく、十分に依存を味わいそれに満足する(訳注:satiating 飽きる)ことにより起こります。 そしてその依存が終わったときにやっと、彼らは自分たちのベッドに向かい、自分たちの家に向かい、そして自分たちの人生に向かうのです。
犬はソファーから離れようとする本能を持ちません。
犬が豪華な枕の快適さを放棄することをあなたが望むなら、その犬を訓練しなければなりません
ネズミも迷路を走りたいという本能を持ちませんが、引き寄せるエサと罰を正しく組み合わせることにより、迷路を走らせることができます。
子供に自立心をもたせるためには、むりやらせることや床の電気ショックやおびきよせるエサは必要ありません。
「この世界で唯一価値があるものは、」エマーソンは言いました。
「生きた魂だ。つまり自由で、自らを律し、生きている魂だ。全ての人に持つ資格があり、全ての人が自分自身の中にそれを含むにも関わらず、ほとんど全ての人にとっては得ることができず、それどころかまだ生まれてさえいない魂のことだ」
この人生で2回目の放出(訳注:effusion=発散、流出、滲出。痛みを伴うことの含み)は、子供時代に起こります。
このとき、愛と安全性とが、新しい魂が生み出されるための忍耐強い助産師となります。
医師はかつて、母乳による育児は時代遅れの誤った習慣だと、アメリカ人女性たちに教えていました。
安全で便利な哺乳瓶が作られるようになった後、子供を母乳で育てることを「望んだ」母親達は、後ろ向きで、そしておそらくは病的だと思われていました。
今私達は、母乳による子育てが、人工的な代用品では満たすことの出来ない赤ちゃんのニーズに合致していることを知っています。
母親の母乳に含まれる栄養素は子供の代謝に合わせた割合となっており、
授乳により子供に送られる各種の抗体は子供に病気への免疫を与えます。
母乳による育児に反対した医学的な動きは歴史的な遺跡です。
現世代の母親はまた、これと同様に疑わしい声明の下で子育てをしています:
つまり「赤ちゃんは一人にしたほうがよく眠る」というものです。
全ての赤ちゃんはよく知っています。夜に一人にされることに対する彼の抗議には、千年の知恵が含まれています。 夜に子供をどのように世話するかという議論は、昼間にどのように世話するかという問題が爆発して飛び散った結果だとも言えます。
事実以外に同意されたものはありません:
アメリカの小さな子どもたちはかつて母親と多くの時間を過ごしていましたが、今はあまり過ごしていません
現代の乳幼児は、様々な代理人に占領されています:
親戚
住み込みの外国人家政婦(au pair)
常勤または交代制のベビーシッター
隣人
慈善組合から来たデイケア職員
テレビ番組
ディズニー映画
コンピュータゲーム
子供がそのうちの誰ともしくは何と時間を過ごすかで、それぞれ違いはあるでしょうか。
子供の集中力が占領される長さ、害になるような状態から離れている長さと、面倒を見ている人が親であるか、祖母であるか、乳母であるか、見知らぬ人であるか、電子機器であるかと、どのような関係があるでしょうか?
これらの質問は、簡単に扱うことができない重力の中心を回っています: それはつまり、子供の辺縁系の必要性という特異性のことです。
もし彼が退屈から逃げ出すことだけを望んでいるのであれば、カラフルな気晴らしが与えられれば十分です
もし彼が単に守ってくれる存在が必要なのであれば、どんな大人でも彼を守ってあげることはできます
しかし愛着行動に関する数十年の研究は、下記の結論を裏付けるものになっています
「子供は特別で入れ替え不可能な他者と精密で個人的な関係を築くことができる」
このような絆の結びつきについての生物学的な調査が示唆することは以下です。
「このような貴重な絆は、子供と親との間で行なわれる神経の同期から現れ、成人の神経パターンは従順な子供の脳にその形を刻みつけることができる」
もしそうであれば、現代の子どもたちが取り囲まれている状況は、献身的な世話人による小さな輪(訳注:親との家族関係のこと)の中に十分に没頭することとは同じ結果を産まないでしょう。
子供が使っている電子的な執事(テレビ、ビデオ、コンピュータゲーム)は、感情的な観点から言えば、もみ殻のようなものです(訳注:実を取り去った後の残りカスという暗喩か)。
彼らは栄養を与えることなく注意と精神空間を占有します。
テレビとコンピューターの時代の皮肉な事実は、人々が機械に求めるものは、物語、接触、相互作用という人間性であるということです。 (自然はこの種のメカニズムをゼロから作成するのに数十億年かかったので、おそらくシリコンバレーがすぐにそれを生産するのを待つべきではありません。)
現代の機械は辺縁接続ではなく不正確なシミュレーションを提供します。
成人のインターネット使用が実際にうつ病と孤独を引き起こすということは不思議ではありません。 その分野の研究者は「ソーシャルテクノロジーがそのような反ソーシャル的な影響を持つことを知って驚いた」と述べました。
しかしそのエンターテイメント性を引き起こす機械の友達たちは、大人と子供との関係のような関係の代用品にはなりません。
次は子供の人間の仲間が与える役割についてです。
子供が受ける愛の量と質は、長期にわたって神経へ影響します。
このような愛の寄贈のサポートを証拠的に裏付けるものとしては、経験というレンガによってレンガがつみあげられているということがあります:
感情的な空白はしばしば、赤ちゃんにとって致命的な影響があります。
育児放棄により、頭囲がかなり小さい子供がうみだされます。
その脳を磁気共鳴スキャンすると、数十億個の脳細胞が失われていることがわかります。
人生の早い段階で母親がうつ病であった子どもたちは、永続的な認知障害を示すことが報告されています。 反応の良い子育てが、その子に永続的な性格の強さをもたらすということが、20年に渡る長期の調査で示されています。
霊長類の子育て研究では、早期の隔離に続く神経の破壊について詳しく説明されています。 感情的なストレスにさらされた母親の子猿の脳が、微妙に混乱状態になったままその状態が続くということがあります。
より多くの養育を受けている若いラットでさえも、あまり甘やかされなかった同腹の子ラットよりも優れた養育曲線を示します。
疑いようの無い判決は以下です:
愛は子供の生に影響を与えます
私達はみな、私達の大きな目の下で静かに動く辺縁系の機能(訳注:新生児時代の感情機能のことか)とともに生まれました。
重要な質問:
そのシステムが許す柔軟性はどの程度のものなのでしょうか。
誰も確信を持って答えることはできません。
たった一人の継続的な養育者では健康を保証することができません。なぜなら最も最適な親は能力があり、子供と調子を合わせる能力がなければならないからです。
誰もがそうなれるというわけではありません。
複数の養育者がいる場合、問題は分割されます
第一に、複数の養育者が「個別に」子供と調子を合わせることによって子供の調整をすることはどれぐらいよいことなのか。
第二に、複数人の養育者が関わることにより子供にとっては不連続な養育者となるのは避けられないことですが、それが子供の感情的な安定性にとっては相容れないとことになるのか。
両親と親戚は、教育者の質という面では明らかに他より優れています
彼らは自発的に愛情を持って尽力してくれます。
(確かに)一部のベビーシッターと保母たちは、子どもたちに対して偽りのない永続的な優しさで接します。
それでも、彼らの愛情は親の情熱には匹敵しません。
まれな例外を除き、他人の子供は単に、自分の子供が自然に引き出してくれるような親の無謀で無私の献身を引き出すことはしません。
もし子供を養育する仕事の給料が跳ね上がったとしても(通常のそれは最低賃金に近いですが)、愛に対する本質的な障壁は依然として打ち破られることはないでしょう。
心を奪われるほど子供に魅了された親以外に誰が、あんなに子供に密着してその微妙な仕草を理解し、小さな合図を拾い上げ、個人的な辺縁による方言を作り上げることをするでしょうか。
他に誰が、複雑でクリエイティブで同席者を必要とするような努力のためには必須の要素である自発的な情熱、魅了、忍耐を感じ取ってくれるでしょうか。
2つの哺乳類の間で同期が成功するということは、
それぞれが他人のリズムをキャッチし、それに応じて自分自身を調整し合うという、アクロバティックな戦術作戦です。
親と子は、ボーリングのピンを巧みに投げあって交換し合う、サーカスのパフォーマーです。
知らない人はその練習されたリズムを中断させることなくスムーズにそこにはいっていくことはできません。
もしいたとしても、その作業は非常に困難なものになるでしょう。
さらに悪いことに、自宅外の保育サービスを提供する平均的な業者は、「一人の」顧客の子供が持つ複雑な感情の要求に向き合えないばかりか、一度に良くて3~6人の子供にしか向き合うことができません。
業務規模という経済要件は明確に存在しますが、それだけではなく保育業者が子供に注入してしまう非人格的な要素は、その子の開発中である感情ニーズにとっては呪いとなってしまいます。
マーク・トウェインの言葉を言い換えると以下になります:
「子供に波長を合わせられる養育者と、子供にほとんど波長を合わせられる養育者との違いの大きさは、光(lightning)とホタル(lightning bug)との違いのようなものだ」
仮に「親であること」以外の条件が全て同じであったとしても(同じではないときが多いですが) 親であることは、若い辺縁系のニーズを満たすという点では最高の機会に恵まれています。
それは、親が持つ一定不変の存在という規則性と、自然な献身のためです。
これらの利点を逆転させると、施設内デイケアセンターの欠点が明らかになります。
幼児の脳は、幼児にとって他のあらゆる人の中で最も魅力的に思える人、その人の周りで自分の心臓がぐるぐる回るようなお思いを持てる人との、継続的な調和を持てるように設計されています。
その代わりに彼は、理解できないほど冷静な6人もの代理人の中に感情的な焦点を当てようとして混乱していることに気が付きます。 発展途上の脳に対する影響の大きさとして、親の惚れ込みと、次々と現れる見知らぬ他人からの分断したやり取りとが、比較対象になるようなものでしょうか。
信じたいという気持ちは、仮説自体の妥当性から出てくるのではなく、希望的な観測から湧き出てくるものです。
それでは、非人間的な辺縁の平野を赤ちゃんに通り抜けさせるためには、どの程度の親の愛情深さが必要とされるのでしょうか。
愛は身体的なプロセスであるため、圧縮できない長さの時間を消費します。
一週間あたりに子供が家庭外で過ごす時間は、0時間から168時間の間、つまり「全く外で過ごさない」と「常に外で過ごす」との間にあります。この一時的なブックエンド(訳注:上下のリミットのこと)の間には、ある時間 -これをX時間と呼びましょう- が存在するはずです。この範囲の中に、親の不在による影響が無視できる程度から感情的なリスクを起こすまでの程度が含まれるはずです。
ほとんどの人はXについて以下に同意してくれるでしょう。
Xの程度は子供によって多少は異なりますが、子供の年令によって増加します。
乳児(赤ちゃん)は最も一緒にいることを必要とし、幼児はその時間が少し少なくなり、年長の子供はさらに少なくなります。
ある年令の子供は、どれに分類したら良いでしょうか。1週間あたりのXは5時間でしょうか、10時間でしょうか、それとも20, 40, 80 時間でしょうか。
その計算式を描き出すことは簡単ではありません。というのは、それは有り余るほど豊富で混同しやすい変数の多さ、多くの利害関係者が永久に議論し続ける際の混乱した誇張表現と歪曲があるからです。
数人の研究者は、1歳未満の子供に対する週20時間を超えるデイケアは、不安な愛着とその負の感情的影響のリスクを増加させることを示しています。 それに反対する研究としては、子どもたちが十分に高品質で広範囲のケアを受けられれば、負の影響は認められないとしています。
高品質のケアに必要な要素:
大きな予算
有能なスタッフ
大人と子供の人数比率が適切であること
養護者の頻繁な交代や配置換えが起こらないこと
これらの条件は、この国で実際に行われている自宅外保育の現状からは程遠いものです。
ひとり親世帯と共稼ぎ世帯の割合が増えている現状では、私達の社会にとってXの値を見つけることは、遅らせることのできない課題です。
残念ながら、私達が歩んでいる道は、解決を先送りにするというゆっくりとした道であることは確実です。
初期のデイケアに関するデータが意味のある科学的論争の息の根を止め、その後にはこのような辛辣な論争が噴出してきました。
心理学者のロバート・カレンは、本を執筆するための資料を集めて研究者たちの「あらゆる」見地を収集しているときに、その困難について語っています。
話がデイケアのことになると、他のことには弁舌さわやかな科学者たちは口をつぐみ、政治的な熱に対しておびえているような素振りを見せました。
ある小児発達研究者は「私は何の意見も持っていません」とカレンに伝えました(「彼」が意見を持たないなら、誰が持つのでしょうか)。
そしてその後の時間(訳注:時間の経過による良心)に押しつぶされたのか、彼はそのポジションを「信じられない」ものから「悲しいけれど信じられる」ようなものに変えました。
科学が出現した後の全ての文化は、経験主義者の冷たい目から、ある特定の信条を守ってきました。なぜなら、好ましくない結果を生み出す可能性でさえ、受け入れられないものとして扱われてしまうからです。
この時代と場所における私達の社会は、雇用されうる大人は仕事とキャリアを持たなければならないという考えを自明なものとみなして促進しています。子どもたちは少しのそれ(訳注:仕事とキャリア)でうまくやっているにも関わらずです。
この土台への社会的な信頼の程度は、将来世代の科学が評価するような究極的な健全性とは関係を持ちません。
「なにかの理由のために戦い、それを実現させることはできるだろう。」とウイリアム・ガス((訳注:アメリカの批評家・哲学者)は書いています。
「しかし、ある希望を実現させるように、ある理想を真理にすることはできない。なぜなら真理とは、天によりもたらされ、私達の手に余るものだからだ」
現代のアメリカにおいて、親の愛が子の発達状況に与える影響の程度を知らないことは、危険なことです。無知を「選択」することはトラブルを招き入れることです。
もし私達がある親に、「現在のライフスタイルが子供から生き生きとした辺縁系の要素を取り除き、神経的なビタミンを与えず、後でかかる病気に対抗するための感情的なワクチンを奪っている」ということを考えてほしいとお願いすれば、私達は親たちに罪悪感と苦悩を引き起こしてしまうリスクを負います。
もし私達がその質問を手に負えないものとして放置し、親が意識しないままに子供に与えるものを少なくしてしまえば、皆の気分が悪くなるでしょう。
これらの問題は、選択の余地のない親にとっては無関係です。
ちょうど、食べ物を買う余裕がない人にとって最適な食習慣の情報が役に立たないのと同じです。
しかし一時的に余裕がある親達もいますし、自分たちが考えている以上の余裕がある親たちもいます。
多くの親たち、特に母親たちは、自分の子供達を何日も置き去りにすることは耐えられないことだと感じます。
このような大きな辺縁系の痛みは、注意深い熟考と可能な限りの証拠もなしに、些細なことだとして軽んじられるべきではありません。
育児のために家にいることを計画している親は、代わりに善意の引き止め者の合唱に出会います:
「あなたは優秀なのに」
「あなたは才能があるのに」
「あなたの時間をもっと活かす別のことをするべきじゃない?」
これらが言外に含むことは明確です:
「愛は成果を生まない」
「それは私達がやり遂げるべきいかなることをも成さない」
このような価値の進捗状況表のツルッパゲさにより、私達の社会は、フルタイムの育児という献身を、夢や自己実現の欠如と同一視してしまっています。
しかし、育児「より」多くの可能性を孕みうる人間の活動が、他にあるでしょうか?
政府とは、文化的な態度を政策に変化する機械です。
「社会が価値とみなすものとは、」アリストテレスは書いています。
「耕されるものだ」
今の風向きを捉えるには、社会政策を一目見るだけで十分です。
一方では保守派が、生活保護を廃止し、シングルマザーが子供を脇に置いて仕事に戻れるようにしようと主張しています。
子育てという仕事ではなく、私達の文化が価値を置き称賛するような「本当の」仕事に戻ろう、というわけです。
一方ではリベラル派が、子供ケア政策を掲げ、子供養育センターの拡充を訴えています。
アメリカ人にとって親であるということは、
これらの間で捉えられ、悩まされ、過小評価され、周りを取り囲まれているということです。
ー時間、注意力、忍耐、食べ物、決まりごと、愛ー
を与えることであり、バランスを取るためには親が「受け取る」感情的な栄養が必要です。
親が二人いることは、思いがけない過剰ではないし、単なる経済的優位性でもありません:
親たちは、お互いを助け合い再補充し合うためにお互いを「必要とする」のです。
それでもなお、ますます多くの家庭において、片方の親が偏った負担を単独で負っています。
アメリカの子供の3分の1は、母親のみの家庭で育ちます。
アメリカの子供の半分は、18歳になる前には片親の家に住むことになります(訳注:18歳になる前に両親が離婚するという意味)
そのような状況による結果は予測できます:
不十分な愛を受けて育った親は、十分な愛を与えることができません
誰に対しても、つまり自分の子供に対しても、です。
心理学者のジュディス・ウォーラーステインは離婚後の家庭を5年間に渡り調査し、その子どもたちが「恐ろしくなるほどの抑うつ状態」を多く持っていることを発見しました。
両親の離婚が子供に与える大きな危機は、彼女が書くところによれば
「離婚という大きな裂け目により子育ての重要性や密度や範囲が減少しまたは引き裂かれ、離婚後の家庭においてそれが強化されることによって起こります」
人間の辺縁系という絆は相互依存関係の網の目の中であらゆる社会構造を作り、そこではかき乱すような動きが内向きや外向きの波を作り出し、反響を起こします。傷ついていない家族が個人に必要なサポートを提供できるだけの十分な期間に渡って大人が集まり合う文化の中でなければ、子供は花を開かせることができません。
そして、愛の充足感を知らずに成長する若者は、生涯に渡る絆を他人と結ぼうともがき、ハンディキャップと戦わなければなりません。
子どもたちの感情という運命は、両親がお互いを愛する能力と密接に結びついており、その能力は放っておけば荒れ果ててしまうものです。
2人の力学
ロマンティックなものを含めた人間同士の関係性は、辺縁系のエネルギーを素晴らしく繋ぎ合わせるものです。人類はこの古代からの力をよく知るために計り知れない期間を費やしましたが、今日、その本質を掴むことがこれまでで一番できなくなっているように見えます。
辺縁の関係に無知な私達の文化から見ると、愛するということは、明らかに当惑させるものになっています。
書店は人間関係に関する入門的なハウツー(how-to)本でいっぱいになっていますが、誰もどうしたら(how)いいか知らないように見えます。
このような無知は、痛みを伴う1ポンドの肉(訳注:ベニスの商人からの引用)を摘出します:
ドストエフスキーは以下を書いています:
父たちよ、教師たちよ。私は「地獄とはなにか」という問題についてじっくりと考えた。 私はそれが「愛することができないという苦しみのことだ」という結論に達した。
あまりにも多くの人たちがこの煉獄の苦しみの中で生き、救いを求めて無駄骨を折り、そしてそれに逃げられています。
彼らが知らないこととは何でしょうか。私達の文化が彼らに教えることができていないこととは何でしょうか。
愛に関する単純な公式としては「関係性とはリアルタイムなものだ」というものがあります 彼ら(訳注:その公式を信じる人達)は、花粉の上で蜜を吸うミツバチや、酸素の中の好気性細胞のようなやり方で、愛をむさぼろうとしています:
(訳注:しかし)関係性は生理的なプロセスであり、
それは消化や骨の成長と似ており、
一見できそうに見えるような加速を許しません
従って、他人の感情というリズムに自分をチューニングさせ、その状態を維持する能力のためには、何年もの投資期間が必要です。
アメリカ人は現代の効率性に慣れて生きてきました。
電子レンジ、レーザースキャナー、数値計算コンピュータ、高速インターネット
人との関係性はなぜこれらと違うのでしょうか。
関係性を、10年前や100年前や1000年前にかかっていた時間よりも短い時間で獲得できるように圧縮できるべきなのではないのでしょうか。
しっかりとした辺縁は、私達の文化を不意打ちしません。
現代のアメリカ人は不注意により自分の所属を失うと、全く困惑してしまいます。
新しい所属ができさえすれば、関係性は再度確立されます。
しかし「モノ」の耐久性という文化的な神話が、社会的な絆に対して染み込んでいます: 一度それを得れば、いつでもまた得られる
一度関係を作れば、何週間後か、何ヶ月後か、何年か後にまた元に戻せる、というわけです。
真実は、劇作家ジャン・ジラウドの次の言葉よりすこし悲惨です。
「2人の愛しあう人達の間に、1つのクサビを置くとする。それは成長する。一ヶ月、1年、1世紀が経過する。そのときにはすでに手遅れになる。」
一部の恋人達は、2人が十分にお互いの姿を確かめ合うための同じ時間を過ごしていないという単純な理由により、愛することができません。
先進的な通信技術は、接触しているかのようなニセの近接性を、その実態を伴わずに伝送することにより、誤った一体感という幻想を助長します。 電話、FAX、Eメールなどです。
単純に会える時間が少ないということにより関係性が不調になっている場合、両側の当事者はしばしば、何も手につかないと主張します。彼らが「いっしょに」時間を過ごすという全ての活動は、不可欠なものとして分類されます:
家の掃除、ニュースを見ること、小切手の残高をチェックすること、などです
そのような関係は、持ち歩くには高価すぎます。
救命いかだを海に放とうとするとき、慎重に未来を見て生き残ろうとする者は、船のデッキ上の装備を持ち出すことは考えますが、食料をいかだに積み込もうとはしないでしょう(訳注:優先順位として食料が一位ではないし、重量の問題もある、という含みか)
人が人生の一部を放棄しなければならない状況に置かれたら、仲間との時間はそのリスト(訳注:放棄するものリスト)の最後でなければなりません。彼は生きるためにはそのような他者との関係性を必要とするのです。 カップルは、友人、同僚、家族、彼らのいる世界からは、このようなアドバイスを受けません。彼らには、愛着すること(attach)ではなく、成し遂げること(achieve)が奨励されます。 アメリカ人は何よりも成し遂げ、獲得することをお互いに駆り立て合います。
私達の国の夢は、約束の地へ導いてくれる産業を持つということであり、
誰もその楽園の分け前を見逃したくはありません
キャリアパスを完成させても幸福がもたらされない場合(通常はそうです)であっても、その前提を再考するための一時停止はほとんど行なわれません。
ほとんどの人たちは、より努力しようとします
職業という遠心分離機を速く回転させるほど、その高速により発声する機械音は、自分の心という賢いつぶやきをかき消してしまいます。
アメリカ人が関係性を築こうとし始めると、彼らはこれまで間違った絵の鑑賞の仕方を何年も教わってきたことに気づきます。(訳注:間違っていてもいなくても絵は実物とは違うという著者の含みか)
実在物よりその外形に対して信頼を置くためのキラキラした投票活動(訳注:大統領選挙のキャンペーンや商品広告の暗喩か)の中で、私達の文化は、愛に包まれている状態の束の間の短さをもてはやす一方、愛することの重要性を軽視してきたのです。
子供は親の感情的なパターンに同調し、それらを保存します。その子が後の人生でそれに近いパターンに気づいたとき、心理生物学的な鍵穴に鍵が滑り込み、タンブラー錠は開き、彼は恋に落ちます。 大脳辺縁系という構造の精度は驚異的です。500万人が住む都市、2億7千万人が住む国、60億の世界人口の中であっても、人は前任者と感情的に同一なパートナーを選び出し、憧れに囚われてしまいます。
「愛の状態」は、三本のピンと張った糸を絡み合わせます:
その人が自分とぴったり合い、そしてそのような人はこれまでおらず、これからも現れないだろうという予感
他のすべてのことが目に入らなくなる狂乱的な衝動
そのような多面的な盲目状態の中で、「愛の状態」は、他の精神的な出来事ではありえないほどに現実を書き換えます。 「愛する人は誰でも、」エリザベス・バレット・ブラウニングは言いました。
「不可能を信じるものです」
私達の社会は、「愛の状態」における至高性、ただしその束の間の狂気性という側面を除いた部分の至高性を主張するという点で、一枚上を行く狂い方をしています。
多くの人達は、もし自分たちがずっと興奮し続けることができないのであれば、それは関係性における至上のものを見逃しているのだという文化的なメッセージを受け取っています。
ポップカルチャーを発信するすべてのメディアは、お互いのことを知らない魅力的な2人がベッドで情熱的なセックスをする瞬間として、大人の親密さを描き出しています。
愛の目覚めとはすべて、そのようなドキドキする情事という理想に向かうのだと、私達は聞かされています。
しかし「愛の状態」は単にパートナーを結びつけるだけであり、そのような前奏曲が終わることは、そのことの望ましさと同程度に、避けることができないものです。
真の関係性は、酔いをもたらしていた前任者の衰退が起こる場合のみ、花を開かせるチャンスを得ます。
「愛すること(Loving)」は、「愛の状態(in Love)」とは辺縁的に大きく異なります。
愛することは、相互依存です。
愛することは、同調と変調が同時に発生することです。
そのため、大人の愛は他者を「知る」ことに決定的に依存します。
「愛の状態」は、感情の方向性を決めるために短い付き合いの知人だけを必要としますが、それは最愛の人の魂という本を序文からエピローグまで熟読することを要求はしません。
「愛すること」は、(自己とは)異なる魂についての長く詳細な監視、しつこい親密さに由来するものです。
他人の輪郭を写し取る能力は人により異なるため、愛する能力もそれぞれ異なります。
このスキルは子供の人生初期の経験により身につけるものであり、そのスキルの程度はその子の両親が「その子を」理解する能力に正比例します。
共鳴可能な親との安定した辺縁系の接続は、感情という専門知識をその子に与えます。そうしてその子は別の誰かの内面を見て、感情的な景色をマッピングし、感じたことに反応することができるようになります。 偏ったアトラクターは、人が自由に、そして上手に愛する能力を奪います。彼の心は、目の焦点が正しく合っていないかのように何かをじっと凝視しつづけ、目の前にいる人の向こう側や背中ばかり見るような不安定な癖をもちます。 このように追い払われた心は、愛のデュエットの中で他者のリズムに合わせようと努力しても、他者のテンポを捉えようとしても、つまづいてしまいます。
「愛すること」は相互に影響を与え合う生理現象なので、ほとんどの人が思い描くよりも深い、文字通りのつながりを必要とします。辺縁系の統制により、恋人達は以下の調整が可能になります。
神経生理学
ホルモンの状態
免疫機能
それらの安定性
恋人の一方が旅行にでかけると、もう片方は不眠、月経の遅れ、そして一体性により強化された免疫状態ではおとなしいままだった風邪の症状に悩まされるかもしれません。 一人の恋人の神経に染み込んだアトラクターは、相手方の感情という仮想性をゆがめ、その感情的な認知 ーつまりその相手方がどのように感じ、どのように見て、どのように知るか、ということー
を変えます。
ある人がパートナーを失ったとき、まるで体の一部を失ったように感じる、と言うとき、その人は自分が考えている以上に正しいことを言っています。
その人の神経の動きの一部は、その相手方の生きた脳という存在に依存しています。
それ(訳注:相手方)がなければ、「彼を」作り上げる電気的な相互作用も変わります。
恋人達はお互いのアイデンティティーの鍵を握り、お互いのネットワークに神経構造上の変化を書き込みます。彼らの辺縁という絆は、お互いが誰であり誰になるかという影響を与え合います。
相互性という言葉は、私達の社会が取引という技術に与えた優位性により、不当にわかりにくい状態にされています。 現代で一般的に語られている神話は、「関係性とは50:50の関係である」ということです。 この間違った格言によれば、ある人が他人のために良いことをした場合、彼はその行為と同じぐらいのお返しを受ける資格があるーそれも早ければ早い程良いーとされます。しかし、愛という生理現象は、物々交換ではありません。
愛は同時発生的な相互条約であり、自分で自分のニーズを満たすことができないためにお互いがお互いのニーズを満たし合うという行為です。
そのような関係性は 50-50 ではなく 100-100 です。
それぞれがお互いの永続的なケアを行い、同時相互関係の中で、両方ともが発展します。
それを達成する人々にとって、深い愛着は強力な利点です。 それにより調整される人々は、全体性、中心性、そして生きている実感を感じます。
適切な生理学調整を適切な源泉から受ける人たちは、日々のストレスに対して粘り強く立ち上がり、もしくは非常に恐ろしい経験に直面しても耐えることができます。
関係性とは相互性であるため、パートナーたちは一つの運命を共有します: 一方に利益をもたらし他方を傷つけるような行動は禁じられます
パートナーを罠にかけて自分のニーズに従うように説得して自分が勝てると思っているような激しい交渉人は、消え去る運命にあります。
贈与に対するお返しを止めてしまうと、健康なパートナーが相手を養うことができなくなります それは、彼女が与えようとしていた食物が入っている井戸に毒を巻くことになります。
一つのカップルは「一つの」プロセス、「一つの」ダンス、「一つの」物語を共有します。この「一つ」の価値の高めるものであれば何でも、両方の利益になります。
その価値を貶めるものは何でも、両者の生の可能性を弱めます。
愛について語る現代の作家・研究者たちは、見返りの保証がない関係性に対して投資するという愛の性質に対して、衝撃を受けます。
しかし贈り物と抜け目の無さとを区別するものは、まさにそのような(訳注:見返りの保証の)不在性です。愛は抽出されず、命令されず、要求されず、騙し取られることもありません。それはただ、与えられるだけです。
愛に関する知恵を持つ文化がもしあれば、その文化は、関係性とは時間を要するものだということを理解するでしょう。 それは「愛という状態」と「愛すること」との違いを教えてくれるでしょう:
その文化はその構成員に、私達の生の全体が依存している相互性という価値について、告げ知らせてくれるでしょう。
感情という生きる仕組みに精通した文化は、健康を維持するような以下の活動を奨励し促進してくれるでしょう
パートナーや子供達とともに過ごすこと
住宅、家庭、地域コミュニティーによる繋がり
そのような社会はその住人に対し、以下をガイドしてくれるでしょう。
喜びとは愛するものの中心にあるということ
バートランド・ラッセルの言う「神秘的な細密画の中に描かれた、聖人や詩人たちがこれまで想像の中に描いてきたような天国」にあるということ
上記のような文化と私達の文化(訳注:アメリカ文化)との違いは、これ以上無いほど明白です。
辺縁の追求は、アメリカの優先事項リストの中で、ゆっくりと確実に優先順位を下げています。そのリストの上位は依然として以下のままです。
富の追求
物理的な美しさ
若い見た目
そしてすぐに移り変わりとらえどころのない地位を表す印
これらの追求の終わりには、以下のような一瞬の痙攣発作があります:
最近買った物に関するカミソリの刃の薄さのような喜び
このセールやあの不要な小物を買うために右往左往すること
そこに喜びはありますが、満足はありません。
幸福は、アメリカ的価値からするりと逃げ出した器用な人たちの手が届く範囲の中だけにあります。この反乱者達は以下を遠慮します:
高い社会的地位という称号をもらうこと
魅力的な友だち
異国情緒のあるバケーション、
洗濯板のように割れた腹筋
これら、上を指向するという誇りの現れの全て
これらを放棄することと引き換えに、彼らは単にまともな人生を手に入れるチャンスを得るのかもしれません。
真実と結果
エベニーザー・スクルージ(訳注:小説「クリスマス・キャロル」の主人公)が「現代のクリスマスの精」と最後の話し合いをしているときに衝撃を受ける直前、彼は緑のローブの下に身を寄せる2人の骸骨のような精に気が付きました。 彼らは人の2人の子供である、「無知」と「貪欲」です。
哀れな死体の状態にぞっとするスクルージは、彼らのために何ができるかを尋ねました
「彼らは避難所や他に住むところを持っていないのですか?」彼は叫びます。
精は、無いと答えました
「刑務所は無いのですか?」 彼は彼自身の惨めな呪文でスクルージを串刺しにした。
「感化院も無いのですか?」
時計が12時を打つと、彼は最後のそして最も許すことのない幽霊と直面しました。
スクルージをたじろがせた人たちと同じく、現代の闇の子供たちは困難を抱えており、彼らを見るだけで苦痛を感じるほどです。ある社会が辺縁のメカニズムを妨害した場合、それはアメリカ人の日々の生活の一部になっているような病的なパターンという苦痛を解き放ってしまうことになります。
中心がうまく働かないとき
豊かな辺縁共鳴がなければ、子供は以下を発見することができません
どのように物事を辺縁で感じればよいのか、
どのように感情のチャンネルを調整できるのか、
どのように自分と他人を気づかったら良いのか
辺縁の規制が働く十分な余裕がなければ、彼は感情の調整を内面化することができません。 このようなハンディキャップを負った子供は成長しても、自分のアイデンティティーは不確かなままで、感情を調整できず、ストレスに脅かされれば自己のカオスによる餌食になります。
不安とうつは、辺縁系の不足がまねく最初の結果です。
初期の分離による抗議段階で優勢な感情は、神経を乱す警報です。 哺乳類の孤立状態が長引くと、うつ病の分身である無気力な絶望に陥ります。 感情的な切断は、若いアカゲザルに対して、「神経質さ」と「抑圧的」という双子の初期状態を、生涯に渡る脆弱性として植え付けます:
これは私達が属する霊長類(訳注:人間)においても同じです。
人生初期の密接な関係は、ストレスの影響に対する永続的な回復力を植え付けますが、
無視することは子供たちをそれらの影響に敏感にします。
不安定な愛着状態にあった子供の脳は、刺激的な出来事に対して病的に多くのストレスホルモンと神経伝達物質を生みだします。 そのような反応性は、大人になっても持続します。
そのような人は、小さなストレス要因によってさえも病的な不安状態に引っ張られ、
大きく長いストレス要因が発生すると、それは彼をうつ状態というブラックホールに引き込みます。
これらの2つの感情状態は伝染病です。
アメリカはうつ病と不安のそれぞれに対して年間500億ドル以上を費やしており、それはその背後にある苦しみの山を暗示するような巨大な額です。 そして、その山は成長しています。米国のうつ病の割合は、1960年以来着実に増加しています。その期間の間に、若者の自殺率は3倍以上になりました。
児童福祉に関する調査報告書は、子どもたちの栄養状態、鉛への曝露率、車のシートベルトの形状については詳細に記述していますが、彼らの生活における愛の安定性と質については言及していません。学校給食の野菜含有量と同じくらいそれらの関係に注意を払うのが賢明でしょう。
安定をもたらすセンターが不足している人は、ギャップを埋める何かを緊急的に必要とします。世界を航行しようとするときには、自分自身を方向付ける「何か」が必要です。
彼は、自分や他人の核に到達できる辺縁系というツールを使用できないため、外部にある手がかりのうち、自分が確信を持つことが「できる」ものを見つけ出そうとします。
内容を「見る」ことができない人は、外見のみを見ることで手を打たなければなりません。
彼らは、代替手段を持たない人に見られる死にものぐるいの必死さで、イメージにしがみつくでしょう。
ある文化が浅くなっていく時には、
整形手術が健康に取って代わり、
写真写りの良さがリーダーシップを蹴散らし、
言葉の巧みさが清廉潔白差を打ち負かし、
テレビのキャッチフレーズ(sound bite)が真剣な議論にとって代わり、
政治的正しさ(political correctness, PC)による言葉のラベルの張替えにより消えるものは何「であるのか」ということ自体が変えられていきます
ある社会が辺縁系という基盤への接触を失うとき、混乱を起こす竜巻が勝ちます。
本質的なものへの憧れは、不可避的に弱められます。
愛着という文明の布地がほつれ、人々が人同士の関係から得られるように設計されているはずの感情という機構を利用できない場合、彼らは手を置くことができるあらゆる手段を徴収します。 彼らの飢えた脳は、以下の効果のない代用品に満足を求めます
アルコール
ヘロイン
コカイン
それらの類似物
感情のバランスを生み出す神経処理にアクセスできない人が増えれば増えるほど、ストリートドラッグを買い求める人の列は長くなります。
メディアは定期的に、麻薬に対するアメリカの戦いの状況について報道します。
しかし、わが国が戦う本当の戦いは、
麻薬「それ自体(per se)」ではなく、辺縁の痛み、すなわち孤立、悲しみ、苦味、不安、孤独、絶望です。 私たちの文化はこの闘争により多くを失い、何百万人もの人々が感情という繊細な器官をなんとか操り、日々の不快感から一時的に逃れようとしています。
もしこの薬理実験が成功した場合、つまり実際に彼らが幸福と感情的な満足度を増加させることができた場合、だれがそれに反対できるのでしょうか。
しかし感情的な痛みに対する手作りの化学療法は悲惨な結果を招きます。
路上で売られている気分変更薬は、数分から数時間の間は苦痛を消し去り、それからそれは消え去って、やがてより深い痛みを残します。それを繰り返し使用すると、神経系が破壊され、すでに破れかぶれになっている生活をさらに掘り返してきます。
アメリカの反麻薬帝国(訳注:antidrug czars, 政府の反麻薬キャンペーンを推進する勢力を差すと思われる)が私達に説明するところでは、薬物中毒が存在する理由とは、ストリートドラッグが普通の人々の心を掴んで離さない(まるで伝説の巨大生物クラーケンのようにまとわりつく)からである、といいます。
これが誤りであることを証明する証拠があります。
現代の科学者達(地下室や納屋にいる人もいます)は、強力な薬同士を調合し、元々の薬の作用を増幅させて罠をはろうとしてきました。
しかし、知られているうちで最も強力な中毒性物質であると考えられているコカインに関する数値を調べてみてください。コカインを試すすべての人間のうち、1%未満が常習ユーザーになり、残りの99人はやめることができています。
マルコム・グラッドウェルが主張してきたように、この驚くべき不均衡は、問題がコカの葉の中にあるのではなく、脳の中にあり感情へ多大な影響を及ぼす小さな断片のなかにあるということを指し示しています。
アメリカは、大脳辺縁に麻酔作用を及ぼす小さなパケットが国境から流入するのを防ぐために、数十億ドルを費やしています。
この金額は、子供の脳はそのような薬に対して最小限の反応しか示さないということを証明するために使ったほうがよいかもしれません。
先祖から受け継がれた気質は、薬物を試す意欲と薬物への依存のしやすさの両方を促進することがあります。
神経科学はいつか治療法を提供するかもしれません。
基礎研究に資金を提供する以外に、平均的な市民が問題を終わらせるためにできることはほとんどありません。
しかしある研究は、子供の薬物に対する脆弱性を変化させるものは、他の全ての神経に関係する問題でも自然が生んだ共犯者となりうる、その子の家庭環境に嫌疑をかけています。
研究に次ぐ研究が、家族との近い絆を結んでいる子供は薬物依存になる可能性がはるかに低いことを示しています。
理想的な家庭状況にあってさえ、10代という年代は感情的なうねり、役割の変化、痛みの増大に満ちています。
ある思春期の若者が家族から辺縁の安定性を受け取らない場合、外部からの化学的選択肢の影響をかなり受けやすくなります。
アメリカの麻薬問題に関する議論は通常、より長い刑期を要求する保守派と、より多くの治療プログラムを要求するリベラル派との間で交互に行われます。どちらのアプローチも、この国の巨大な問題をなくすことに近づいていないことを認めることには消極的です。
薬物使用者を、大量の薬物供給元でもありそれを使用する誘惑の機会に満ちている刑務所に委任することは、説得力のある処方箋ではありません。
議員たちが薬物治療に投資しても良いという気分になっている場合にのみ、薬物治療は大いに効果があるということが証明されます。そして、中毒者についてくれるロビイストはいないため、そのような証明はあまり頻繁には行なわれません。
文化が辺縁系の原則を理解してきたため、薬物との戦争に勝利する方法とは何かということが明らかになりつつあります。
化学的な依存という悪について10代の少年たちに説明し説教することにより、彼らを薬物依存から遠ざけることができると思いますか?
それは信じないほうがいいです。そのような結論に意味がないとは言いませんが、それは大脳新皮質についての話であり、辺縁系についての議論ではありません。
痛みを受けたという事実は、それをなかったことにはできない、強力な動機づけです。 そうではないというふりをすることは、これまでずっと基本的に気分が良かった人だけに説得力のある、古い錯覚です。のんきにただ「No」ということは、人の脳と意志が分けられるという仮説に基づいていますが、それは間違った仮説です。
辺縁系という心の変わりやすさは、このような軽快なスローガンが要求するような神経的な能力を低下させます。
薬物中毒の再発を防止する防波堤は、深い内省や熟考よりも、集団による親交にその多くを負っています。 それは、アルコール依存症の自助グループとその類似グループが示しているとおりです。
それぞれの物語を共有するために集まることは言葉にならない強さを生みだし、それはロバート・フロストが別のところで
「人生の解明 ー党派や宗教団体がそのために作られたような強い解明ではなく、混乱に立ち向かうための一時的な滞在」
と呼んだものです。
集団内の辺縁の調整はその構成員に対してバランスを取り戻させ、自分が中心であり全体だという感覚を取り戻すことを可能にさせます。 しかしあちこちにあるその集団内の団結性も、万能薬ではありません。多くの場合薬物ユーザーは、薬物が差し出していた一時的な執行猶予に戻って(訳注:薬物を再度使い始めること)しまいます。
閉じ込めと治療には欠点があります。
予防こそが紛れもなくそれらを置き換えうるものです。
それは、薬物の危険を忠告するテレビコマーシャルやパンフレットではなく、家族の初期の愛という形で自然が提供する貴重な予防処置です
ポリオから体を守ってくれるソーク(訳注:ポリオワクチンを開発した医師)の薬のように子どもたちの脳にストレスへの免疫を作る必要があり、そのためには子どもたちを思いやりを持って、徹底的に、忍耐をもって育てる必要があります。 愛はストリートドラッグにより軽減されるような絶望に対する最良の保険ですし、これからもそうであり続けるでしょう。
限られたパートナーシップ
辺縁系の脳は、レゴのブロックのように、哺乳類に対して他者と関係を結ぶ準備をさせます。人は多様な他者と長く続く愛着関係を形成します: 夫、妻、子供、友だち、出身校、家から一番近い野球チーム、勤務する会社、などです。
売らなければならなくなった古い車や、履き古したジーンズなどに対する愛着を感じたことがない人がいるでしょうか。
ローレンツのアヒルのように、人はときどきやり取りのできないものとの間にさえ、絆を形成します。 人同士の関係から切り離されると、辺縁系の性質はたどたどしくなる場合があります。
ある人の脳が、感情的な不活性さを持つパートナー候補をターゲットにする場合、愛着という必然性は彼に、彼を満足させないようなものと接触させることがあります。
それは、暑い夏の夜に蛾がその羽根を街灯のランプに打ち付けるかのようにです。
哺乳類は不活発な他者の中の欺きの光を見出すことがあり、それはギブ・アンド・テイクの精神からは決して生まれることのない間違った愛着感情です。
今日の最も危険な偽りの愛着は、人間と企業との間に生まれます。 ダウンサイジング(小型化)とそれが遠回しに指し示すもの(訳注:コスト削減・人件費削減のこと)の時代において、献身的な労働者という物語は、長年の忠実なサービスが典型的なものになった後、突然終了しました。
そのような物語の殺風景な記述の背後には、仕事に心血を注ぎ、チーム精神により金銭的な報酬を超えて与え、その後に突然無礼に捨てられた何千人もの人々がいます。
そのような人々の多くは、幸福を促進するはずの愛着という仕組みに待ち伏せされ、代わりにそれに捕らえられてしまいました。
自然な辺縁系には、忠誠心、懸念、愛情という傾向が含まれます。
「人が愛するとき、」アーネスト・ヘミングウェイは書きます。
「その人のために何かをしたいと思います。その人のために何かを犠牲にしたいと思います。その人に仕えたいと思います」
そのように設計された環境 (家族)の中において、このような衝動は、健康な関係性が根付き成長するような肥沃な土壌を作ります。職場は家庭と非常によく似ています。実際、人類の歴史のほとんどにおいて、職場は家庭でした。両方の環境において人は、愛想の良い仲間、権威ある監督、共有された苦悩に遭遇します
しかし、会社と家族には大きな違いがあります。
企業には人間にはある感情という衝動がないため、くっついている状態(attachment, 愛着)は、迅速な搾取を促します。 企業は、「自分自身が」直観的に価値ある存在であると認識させるような辺縁という構造を持ちません。 忠実さと忠誠心とを企業(法的には人だが生物学的には幽霊)に向けて拡張して適用する人々は、危険な一方的契約に騙されてきました。
健康な人たちは辺縁系の生理学に首まで浸かっているため、自分の心を以下の馴染みのない爬虫類的な真実という形に合わせるのに苦労しています:
「辺縁の結びついている領域の外にいる人を傷付けることについては、事実上、制限はない」
戦う兵士を育てるには、敵を打ち負かすのに必要な身体スキルを教えるだけではなく、敵を作り出す感情的な態度を兵士に植え付ける必要があります。
心理的なゴールは、仲間内の絆を強化すると同時に、「われわれ」と「やつら」の間の精神的な絆を断ち切ることにより達成されます。
「奴らは私達とは違う」と両方の側が将来の戦闘員に教え込みます
「奴らは劣っていて、人間ではなく、動物以下だ」、と。
一般の兵士は、高尚な政治的理想のために戦うのではなく、
歴史は、辺縁系の結びつきを持たない集団同士の間で起こる残虐な行為であふれています。
企業の不正行為が発覚すると多くの人に衝撃を与えますが、企業は軍隊と同様、外部への差押令状(訳注:attachment=愛着とのダブルミーニングになっている)を発行しうるオペレーションを行っています。 そこで起こることは、単なる違法行為どころか、残忍な行為でさえ、避けることができません。
たばこ産業は、歴史上のどの兵器よりも効率的に死をもたらしました。
それは、「私達が埋め込まれた私達自身の社会(our own people)」にさえ死をもたらしました
なぜなら、「私達自身」というのは、企業のではなく、辺縁系の標語だからです。 ジョンズ・マンビル・コーポレーションがアスベストの致命的な影響を隠蔽したとき、会社は見知らぬ他人ではなく、数百人もの従業員を、知らずに死に追いやりました。どんな爬虫類も同じことをしたでしょう。
誰も存在しないところに相互関係を想定することは、哺乳類にとっての死を意味し、時には致命的な誤りになります。
マンビル訴訟の中で、パターソン産業委員会の元会長であるチャールズ・H・レーマーは、マンビルの社長ルイス・ブラウンとマンビルの企業弁護士である弟のヴァンダイバー・ブラウンとの昼食会での会話について語った。後者(弁護士のヴァンダイバー)は、他のアスベスト製造業者が従業員にアスベストの危険性、それがもたらす致命的な病気について知らせているという愚かさについて、あざ笑った。
レーマーの証言:
「私は、『ブラウン社長、あなたは従業員が死んでしまうまで働かせると言ったのですか?』。彼は答えました『ああ、そうすればたくさん節約できるからね』」
家族に自分を埋め込みたいという衝動
他者との間で同じものを共有し続け、チームの一員となり、絆、共通の勝利を目指すグループを持ちたいという衝動 は、人間の心と脳が持つ、変わることのない側面です。
そのメンバーが愛に飢え、愛の働きを知らない社会では、多くの人が実を結ばない企業に多くの愛を注ぎ込み、結果としてゴミを収穫することになるでしょう。
地獄を作るために必要なこと
親と子の間にある辺縁系の作用は神経発達を方向づけるものであるため、役目を果たす動物としての振る舞いを身につけるためには、社会的な接触が必要です。親の指導がなければ、神経化学的な分裂が蓄積し、芽を出しかけた複合的な行動は混乱に陥ります。
アカゲザルを隔離して飼育した場合、健康で一貫した個体とは程遠い、悪夢のように頭を揺らして目をほじくり続ける変異体を生みだします。アカゲザルの子供は、通常サルはそうであるように、食べたり飲んだりすることでさえ母親に面倒をみてもらわなければなりません。
霊長類の隔離飼育実験は、私達にある教訓を教えてくれます。
攻撃性は、正確な神経制御を必要とする、非常に複雑な行動です。 あまりにも反骨心(hostilit)が少なすぎると、個人が生き残ることの妨げとなり、
あまりにもそれが多すぎれば、社会的動物に必要な政治的共存が妨げられます。
親にそだてられたアカゲザルでは、攻撃性と脳内の神経伝達物質レベルを調整する機能との間に相関があることが確認されています。 通常の脳は、このような何千もの微妙なリズムで騒がしい状態になっており、微細な仕組みでそれらの振る舞いを作り出したり調和させたりしています。
初期の辺縁調整を受けられなかったサルたち(訳注:隔離飼育されたサルたちのこと)は、このような神経の組織編成と、攻撃性を調整する能力との、両方を失っていました。 彼らは一貫性を欠き、予測不可能で、混沌とした欠陥を持っていました。その症状は、現在の先進的な薬物治療によっても治療不可能です。
ゲイリー・クレーマーはその様子を冷静に観察し、隔離飼育されたサルは
「通常の社会的ルールに順応しないということ以上に、通常の神経生理学的ルールに順応しない・・・。その全体的な脳機能の不整合さは、現在急激に発展している薬理学的治療によっても、治すことは不可能であるように見える」
と記録しています。
哺乳類は神経生理状態を正しく保つために関係性を必要とするため、
社会的な機能を持つ人間を作り上げるもののほとんど ー愛という生理状態を形作るちからー は、関係性から来ています。
最小限のケアしか受けなかった子供は、社会形成に無頓着な厄介者に成長する場合があります。
霊長類の複雜でお互いに絡み合った脳神経の暴力に対する防護壁は自己修復されないため、辺縁系にダメージを受けた人は命取りになります。
もし十分にケアされないままでいれば、大脳新皮質のずる賢さで武装された爬虫類的な組織として機能します。そのような動物は、同じ種の他の個体を傷つけることにためらいません。 その個体は、小さな不満や少ない利益のために気軽に殺してしまうことをやめる、というモチベーションを、自分の内部に持ちません(内面化)。 路上強盗により被害者を身体障害者にしたある若い犯罪者は、自分の行動について以下のように説明しました:
「だから何だって言うんだ。俺は彼女(被害者)じゃない。」
アメリカは、容赦ない殺人者を大量に生みだしています。
100年前、切り裂きジャックは5人を殺して西洋世界の注目を集めました。
この社会(訳注:アメリカ)は、そのような控え目な悪事にほとんど気づかないでしょう。
非常に多くの殺人者たちが、切り裂きジャックというアマチュアを数的に凌駕しているため、その殺人者たちの名前を思い出すことはできませんし、
ましてやその犯罪の内容はなおさら思い出せません。
魂のない暗殺者の集団は、偶然には発生しません。
これらの復讐する不死鳥達は、かつては健康な人間だったかもしれないものの神経の残骸から生まれてきます。
状況が悪化するにつれて、暴力はより若い人たちから現れてきています。私達の社会は今、末期的な子どもたちでいっぱいです。
コロラド州では、爆弾と自動小銃で武装した10代の少年の二人組が、十数人のクラスメート、教師、そして自分自身を整然と処刑しました。
アーカンソー州では、13歳と11歳の少年が子供と教師のグループを冷静に待ち伏せし、銃で撃ちました。5人が死亡し、10人が負傷しました。
あるカリフォルニア州の裁判所は、幼児を殴り殺した12歳の少年に有罪判決を下しました。
オークランドでは、6歳の子供がアパートに侵入し、赤ちゃんの頭蓋骨を蹴りました。彼は殺人未遂で起訴されています。これは、わが国の歴史上、その犯罪で告発された最年少記録です。あまりにも恐ろしく現実的なこれらの出来事は、全国的な悲嘆、混乱、絶望を呼び起こします。
このような物語は熟考すべき悲劇を含んでいますが、多くの人が推測するほどにはその謎は多くありません。
辺縁の欠損は、私たちの脆弱な生理学の中でずっと前に確立されたプロセスを通じて、制御不能な悪意を生み出します。無視された子供の脳内では、数十億個のニューロンが失われていることを思い出してください。 誰かがこの消えた細胞がとるに足らないものだと考えてしまうといけないから、私達自身の子どもたちがそれを他のやり方で証明しているのです。
ウインストン・チャーチルが気づいたとおり、赤ちゃんにミルクを与えることより素晴らしい投資はありません。
全ての幼児の中には人間の可能性がありますが、その健康な発達は与えられるものではなく、私達が努力で作るものです。
私達がその火花を保護し、導き、育てなければ、私達はその中にある命を失うだけではなく、私達自身に降りかかる後の破滅を解き放つことになります。
主たる恐怖植え付け者(PRIMARY SCARE PROVIDERS = PRIMARY CARE PROVIDER(主治医)のもじり)
アメリカの多くの公的機関の動向は、それが驚かさせるものではないとしても、不安にさせるものです 。
教育は包囲され攻撃されています。
というのは世界で最も裕福な国が、継続的に学力の低い子どもたちを生みだしているからです。
混雑した裁判所はほとんど停滞した状態になっており、退屈な車輪の回転を止め、正義とはなにかという常識からますます離れた判断を下すようになりました。
政治家はテレビでお互い同士を非難し合うための資金を集めることに足を取られて抜け出せなくなっているため、政府は熱狂的な支持を求めるための狂気じみたオークションの場に成り下がりました。
これからもそれらは続いていきます。辺縁領域がもたらすものは、これら全てに関係しています。
皮肉なことに、最も苦しんでいるアメリカの機関の1つは、病気を治すという古代からの使命的な営み(=医療機関)です。 前世紀には、医療の実践に対し、2つの部分からなる変化が見られました。
第一に、病気が医者と患者との関係を妨げ、
次に根本的な再編成がその弱められた絆の誠実性を攻撃しました。
医療の再編成の初期段階では、医師が人間的な関係性から不用意に遠ざけられてしまいました。
20世紀の前半という時代は、洗練された診断の洞察力と比類なき治療能力を実現する見事な技術(抗生物質、ワクチン、X線、麻酔)をもたらしました。
それらが到来した時代とは、患者との疎外を生みだしたものでもありました。過去30年間の間、西洋医学のパラドックスは、技術的な素晴らしさと、その技術が不人気であるということが、不思議と同時に共存しているということでした。
アメリカ人は世界で最も先進的な治療法、非常に大きな力と適用範囲を持つバイオメカニクス(生体力学)の奇跡的な恩恵を受けています。
しかしそれでも、患者は激しく不満を言います。
医者は話を聞こうとしない、と患者達は言います:
医者たちは冷たく忙しいテクノクラートだ、と。
患者達は正しいです。
なぜなら、アメリカの医学は、治療の方法として何よりも知性に頼るようになっているからです。
辺縁系というかつてのスターが不遇の状態になるにつれ、大脳新皮質はその目もくらむほどの優越性を楽しんでいます。 医者たちがかつて知っており、しかしその後新しい機械を導入するために捨て去ったのは
「患者は治療者と専門家との両方を求めてやってくる」という考え方です。
病気は古くからある愛着という機構(machinery)を呼び起こし、それは辺縁系という必要性を目覚めさせます。
患者は医者のもとに行けば、
病気の原因を明らかにしてくれるテスト、正しい判断、適切な治療を望みます。
彼らはまた、その苦しみにも関わらず、誰かとつながることを望んでいます。
彼らは肩に温かい手をかけてくれる誰か、その誰かと安心して話せることを望んでいます。
死に直面しようとしているある患者は次のように説明しました:
「私は医者の時間をたくさんいただこうとは思っていません。私はただ、医者が私の状況をほんの5分ほど考えてくれ、一度だけで良いので私を気にかけてくれ、私と短い間で良いのでつながってくれ、病気を調べるために私の体を触るのと同じように私の魂を調べてくれるだけで良いのです。医者が私の前立腺を探るのと同じように私の魂を手探りしてくれればと思います。そんなのがなければ、私はただの病気を持つ患者でしかありません」
西洋医学は、これらの癒しの道具を、手作りの消耗品、つまり忙しいスケジュールでは許されない贅沢品として却下しました。
「ベッド際のマナー」は、「本当の」病態生理学と比較した場合、軽く元気づけるものであるが本質的に重要ではない、通り一遍のやり取り、とみなされるようになりました。
医学は以下の真実を見失いました:
良い医師は、人との関係性が癒しになることを常に知っています。
実際、現代的な治療器具が出現する前から良い医者は存在していました。
特に、治療者個人へのメタファー的な暗示がもつ潜在力から引き出した魔力だけが唯一の処方箋だった時代(訳注:分かりにくいが占い師が治療者を兼ねていた時代のことか)においては、そうでした。
研究施設で行なわれるテストと手続きによる驚くべき治療結果、病気という賢い敵に対する勝利が、より魅力的であることを証明しました。西洋医学は効果を持つ機械を受け入れ、自身の歴史的な魂を引き渡したのです。
辺縁を感じ取ることという、かつては聴診器と同じぐらいに医学の一部であった行為は、一斉に放棄されましたが、そのコストは高く付きました。
ヨーロッパで最も尊敬されている医学雑誌The Lancetの1994年の提案は、医学生に演技のテクニックを教えることの提唱でした。
演劇のトレーニングを医療カリキュラムに加える?
患者をケアする能力が医者に無いことは恥ずかしいほど明白な事実であるため、医者に患者を心配する演技の仕方を提供するというのです。
「医者が(患者たちを)好きになることができないのであれば、少なくとも気にかけているような振りをするべきだと私達は提案しているのです」と、医学演技士(訳注:medical thespian、thespian は「俳優・役者」を表すユーモラスな表現)は書き残しています。
ここでは、最高に優秀な医者たちが、これは皮肉でもなんでもなく、一種のパフォーマンスアートとして良い関係を偽装しようと、恥ずかしげもなく努力しています。 彼らの図々しいやり方は、西洋医学の中核にある空虚さをうまく表しています。
何年もの間医学界は、医者と患者との間を行き来する物質は、チューブや注射器の中にしかないと考えていました。
それ以外のものは、気軽に省略したり、便利に偽装したりできるものだと考えていました。
患者(ただしそのうちの哺乳類)は、アメリカの医学が辺縁系を欠落していることを感じ取り、それらを一度に捨てました。 伝統的な医学でさえ、治療の感情的な側面を避けていましたが、それ以外の以下のグループがそれに対応するために飛び出してきました
鍼灸師
カイロプラクター
マッサージ師
リラクゼーション
リフレクソロジスト
薬草療法士
その他多数
これらの「代替」療法は、「関係性」という文脈の需要に応じて増殖しました。
これらの辺縁を賢明に調整する手段は、感情的なニーズに親和的でした。
それらは、熱心に話を聞き取りに参加する誰かとの定期的な接触、そしてしばしば、手を置くという古代からの安心感を伴います。
代替医療は、これらの身体接触活動を、単に治癒に付随するものではなく、施術行為本体の真髄であるみなしています。
結果はどうなりましたかって?
患者は自分の足と財布で人気投票に票を入れます。代替医療は現在では、伝統的で近視眼的な前任者よりも多くの立替費用(out-of-pocket dollars)を集めています。
新皮質と辺縁系の医学の格差は非常に深く、人々が喜んで服用している錠剤にまで及んでいます。
代替医療を迎え入れる暖かな視線は、「服薬」の代替手段としていわゆる機能性食品(ニュートラシーティカル)、ハーブまたは自然食品と呼ばれる、エイズから更年期に至るまでの病気を軽減するとうたう食品を作る業者たちを大胆にさせました。
自然から作られた錠剤の魅力とは何でしょうか?
それらの錠剤に含まれる化学成分の有効性が実際よりも神話的であっても、人々はそれらを信頼できると感じています。
現在の法律では、食品添加物の有効性の証明は要求されませんが、薬草療法は法律的にはこの食品添加物に区分されます。
実際、規制のゆるさにより、そのような食品がその中身の原材料表示を省略することができるようになっています(例えば朝鮮人参を含む食品の調査では、その食品群のうち半分だけが朝鮮人参を含有しており、四分の一だけが生物学的に機能性をもつ量を含んでいました。
1990年代には、個人の開業医達と診療ごとに報酬を受ける医師達がマネージドケア(訳注:医療費の高騰を抑えるために治療法を保険会社が指定する制度)と呼ばれる大企業に集結したため、辺縁系の考慮から離れた医学の動きが急激に加速しました。 感情の刷新は劇的でした。医学はかつて哺乳類でしたが、現在は爬虫類です。
医学の管理上の枠組みは、テクノロジーが邪魔になりがちであったとしても、少なくとも参加者間の人間関係の可能性を許可していました。しかし、医師と患者の関係を企業が買収したことで、医学が持つ感情の核が致命的に損なわれました。
企業は顧客を持つのであって、患者を持つわけではありません。
それは経済的な関係であり、辺縁の関係ではありません。
共食いを避けることができないワニのように、HMO(Health maintenance organization, 米国でマネージドケアを運営する医療保険団体)は、患者が食い物にされているか否かに関わらず、利益を得ます。 個々の医師は患者をケアするかもしれませんが、患者を危害から保護する決定を実行する権限を持たない場合がほとんどです。
今日の市場では、ERはジュラシックパークと出会います(訳注:爬虫類が支配する世界という暗喩)
「危険の買い手負担(訳注: Caveat emptor、売り主に詐欺行為等が無い限り、売買されるもの瑕疵負担が買主側にあるという契約)」は、「恐怖の買い手負担?(訳注:Horrescat emptor)」にとって変わられました。
企業が管理する医学は、暖かい衣服でその爬虫類としての鱗を覆い隠します。
毎年秋にはその開かれた入り口が近づいてきて(訳注:学校の卒業・就職の時期だと思われる)、その豊満で洪水のような魅力から人は逃げることが出来ません。
テレビやラジオの広告は、マーカス・ウェルビー(1970年代に米国で放送されたドラマの主人公である医師)、ジューン・クリーバー、そしてマザー・テレサのハイブリッドとして様々な保険会社を描き出しています。しかし投げかけられたマザーは現実化しません。
患者が苦労して学んだように、HMOとマネージドケアの一団は、加入者が支払うよりも少ない費用を支払うことにより利益を得ます。 彼らは効率と冷酷さでこの目的を追求します。
医師は患者の治療を行なわないことを賄賂と脅しにより迫られ、サービスの配給者は官僚的な見通しづらい制度の背後に隠れて、最も強情な自己主張を行う人以外の全ての医療行為を妨害します。
多くの医師はこのような議論を放映することを嫌がりますが、画面に映らない本音としてはこのような企業によるプレッシャー、いじめにより張り裂けそうになっています。
もしあなたが、このような患者達が避けられたはずの病気に襲われたり、臓器や四肢を故意の処理遅れにより失ったり、指揮伝達上の怠慢により死にかけたりしていないと思うのであれば、もう一度よく考えてみてください。
ケンタッキー州のあるマネージドケア組織で働く医師は、患者に必要な手術を拒否したことによりその患者を死なせてしまったことを告白しました。
彼女はその手続きを自分が承認することによる結果を恐れていました:
彼女は、企業としての正しい決断をした後に、そのコスト管理能力が認められて昇進しました。
「距離があるということが、それをやりやすくしました」と彼女は言います。
「・・戦争中の爆撃機のパイロットが犠牲者の顔を決して見ることがないように」
ニューヨーク州の健康管理組合は少し前、あるHMOが、自社で保持している心臓病手術の死亡率を、患者の搬送先を選定する際にその判定ルーチンを改善するためのデータとして使っていたことを発見しました。
この保険会社は、最も信頼できる病院に患者を搬送していたのでしょうか。
もちろん違います。その代わり、保険会社の幹部の決定により、最も手術の死亡率が高い病院からの基本料金を交渉するための材料としてその統計データを使っていました。
病院からの分け前の大小によって患者は一番医療設備がしょぼい病院、顧客が最も苦しめられそうで死にそうな病因に搬送される。
それが医師の元に安全にもどって来る前に、一人の哺乳類が責任をとる必要があります。そしてその前に、私たちの医師は感情的な生命の本質的な性質とそれのために戦う決意に対する彼らの信念を取り戻さなければなりません。
ウォーカー・パーシーは、以下を書き残しています。
「現代人は、自分自身という存在から、世界の他の生き物という存在から、超越的な存在から、遠ざけられている。彼は何かを失った ー何を失ったかを、彼は知らない。彼が知っているのは、自分が死の床にあり、それを失ってしまっているということだけだ」
その神秘的で失ってしまったものとは、共同体の絆に深く根ざしている没入感です
その多様で変幻自在な形態のすべてにおいて、愛は私たちのふらふらした生活を拘束する綱です。その生物学的な錨がなければ、私たちは皆、外に向かって、単独で、襲いかかってくる暗闇の中に投げ込まれてしまいます。
人類の生活は、不安定な世界で始まりました。
そこでは小さな集団が、昼間には食べ物を探し回り、夜は暖かさを求めて集まっていました。
農業の到来により、町や都市で大規模な集団生活が始まりました。
産業革命は家から仕事を奪い、庶民を以下の状態に置きました
区別されない同じ個人の集団である工場労働
工場と鉱山とオフィスの間で散り散りになった状態
「仕事とは元々家族の作業であり、家族の中で行なわれていた」という認識を永遠に奪われた状態
家族が散り散りになるにつれて経済は繁栄しました。
さらなる豊かさを追求するために、情報化時代はより完全な降伏を要求します。
人間関係の時間が短くなり、子供のために使う時間が短くなり、非人格的なすべての時間が長くなります。
私たちの生活が瓦礫の中にしおれていく前に、私達は人間がどうやって生き残っていくべきかを熟考するかもしれません。
現代アメリカ文化という良い取引は、人が最も切望するものを奪ったらどうなるかという影響についての拡張された実験です。
辺縁の無知から流れる結果は、愛の勝利が奇跡的であるのと同じくらい厳しいものです。 悲劇は、全ての悲劇がそうであるように、「その悲しい成り行きが、かつては良い結果につながる可能性を持っていたということ」を、その本質とします。 チャールズ・ディケンズがクリスマスプレゼントのローブの下にいたペアについて書いたのは、私たちの社会に当てはまります:
「天使が座り、悪魔が潜み、邪悪な光がギラギラと光っている。」
もしこのような辺縁系の緊急的な必要性を感じ取る傾向を持つのが私達だけだとすれば、私たちの文化は、私たちの哺乳類の遺産が私たちに与えた神性と引き換えに、悪魔を呼び戻したのかもしれません。
大容量で一つだけの目を持つ新皮質の脳は、アイデアが文明を永続させることを教えてくれます。
図書館と博物館の厚い大理石の壁は、未来への私たちの遺産を保護します。
しかしその射程はあまりにも短い期間なのです。
私たちの子供たちは、明日の世界の建設者です。
静かな幼児
不器用な幼児
にぎやかに走り回る2年生の叫び声
その柔軟なニューロンはすべての人類の希望を内包しています。
彼らの柔軟な頭脳は、明日のアイデア、歌、社会をまだ発芽させていません。
彼らは次の世界を創造することもできるし、それを全滅させることもできます。
どちらの場合でも、彼らは私たちの名の元に、それをします。