MANDRAKE
多くの古きご贔屓衆はその誤りを指摘できるが、おさらいの意味を込めて訂正する。
まず、私の元に使者を送り、呼びつけた師は「もう一度一緒にバンドをやろう」などと言っていない。レベルが違う。ギターのヘッドに貼られているラベルも違う。
師が私を最初に呼びつけたのは私が中学生の時で、私は呼びつけられてこう言われた。
「おまえは何者だ。中学生のくせに生意気が過ぎる。当家への出入りを許す。」
そう言って師はパンパンと手を叩き「ストロベリー!」と叫んだ。
階下のお母さまに店のストロベリー牛乳をコイツに飲ませよとの合図。
師は牛乳店の一人息子。ご両親は激しく日本人だが、師はミックスでファラン系のアジア人だった。
その後師は少年ステルスの脳内に煤のようにこびりついた大衆低俗音楽の呪詛を徹底的に破壊して放り出した。
現在の私の音楽も大衆低俗音楽だが、正確には第二種大衆低俗音楽である。
師によって音楽のデトックスが済んだステルスはバンドのメンバーと嗜好が完全に乖離し、ヤになってしまい、音楽をやめてしまい、モトクロスになってしまい、事故ってしまい、次にやることを失っているところに、激しく長髪な男がやって来る。 彼は「XXさん(師)に平沢を訪ねろと言われたので来た」と言った。
それで、一緒に師の所へ行くと師はこう言った。
「おまえ、コイツとバンドやれ」
私は「はい」と答えた。
19歳。
その後、師とは一度もお会いしていない。
叱られるのが怖くて最初のアルバムさえ献上していない。
田中靖美
インド亜大陸が「もう一度仕事しろ」とケツを蹴った天才とはこの男だ。
不敵の笑いを浮かべるこの男はロマンス詐欺ではなく、MANDRAKEからP-MODELの初期までキーボード奏者、作曲者であった田中靖美だ。
本日、音楽活動離脱後40年を経て
KITE IN CLOUD からアルバムをリリースした。
西の「ヘルスエンジェル」
東の「美術館」
と言われるP-MODELの2つの代表曲をこう呼ぶのは、大阪のニューウエーブディスコと東京のニューウエーブディスコでその人気を分かつ名作であるという評価に由来する。 「ヘルスエンジェル」の作者が田中靖美である。
田中靖美と最初に会ったのは
吉祥寺のロック喫茶「赤毛とそばかす」であった。
雑誌のメンバー募集ページだったか、新宿エルク楽器のメンボ掲示板だったか忘れたが、MANDRAKE結成にあたりヴォーカリスト阿部の呼びかけに応えて初会見となる。
私と阿部はナメられてはいけないと気合を入れて店内へ。
スグに「あの男だ」と分かった。腰まで伸びた髪に何か新聞のようなものを持っていたと思う。
「わ、プロっぽい。ビビる」
と漏らしたのは私である。
話はとんとん拍子に運ぶ。
ところがこの時すでに問題が。
彼はギタリストなのである。
私もギタリストなのである。
しかし、音楽的志向は一致しており、人柄も良い。ぜひ欲しい人材だと阿部と顔を見合わせて頷きあった。
問題は問題では無かった。田中は担当する楽器に執着はなく、それは単なる手段だと考えるような柔軟な男だ。
スタジオでセッションし、負けたほうがベーシストになるという取り決めに合意した。
スタジオのセッションでは私が勝ち、彼は一切抵抗なく、喜んでベーシストとなった。
後日、ドラマー田井中貞利が加わり
MANDRAKEの誕生となる。
当時のMANDRAKEの編成は次の通り。バイオリンがいるだけで只者ではないバンドに見えた。
べース:田中靖美
ヴォーカル+バイオリン:阿部文康
ドラム:田井中貞利
ギター:平沢進
平沢19歳。
その編成で学際や、楽器店主催のコンサート等に出るようになる。
ある日ヴォーカリストが行方不明になり、仕方なくヒラサワが歌うようになる。そして間もなく田中の決定的な変化が発覚する。
彼は密にキーボードを練習しており、バンド内で使えるレベルに達していた。
私がベースを探すからキーボードやって欲しいという要望に応え、田中は快くキーボード奏者になった。
新しいベース、関弘美が加わり、田中はハモンド、シンセサイザー、メロトロンに囲まれ、MANDRAKEは一気にプログレバンドの風格を現すと同時に、活動の幅を広げた。
バンドは絶好調。田中はシンセサイザーを使った独自の奏法を編み出しながらバンドのクオリティーを高めた。
渋谷ジャンジャン、吉祥寺DAC801スタジオや近郊のライブハウスでの定期的なライブに加えて、日本ロック史の伝説、田島ゲ原ロックフェスティバルなどの大きなイベントへも出演するようになる。
後に某レコード会社からお声がかかる頃、私や田中や田井中は既にニューウエーブに傾倒しており、MANDRAKEでアルバムを残すことには乗り気ではなかった。
そして解散。数秒後にP-MODEL結成。親しいバンドから、よくそんなかけ離れたジャンルに転換できたもんだと驚かれた。私と田中なら出来る。
即座にデモテープの制作に取り掛かる。この時田中は初めて曲作りを担当し、以後その才能を発揮し続けた。
そして突然の脱退。音楽とは異なる分野で活躍を始める。インターネットの黎明期にいち早く事業に取り入れ、コンピューター誌に取り上げられた。
そして40年。田中靖美は今日帰って来た。
田中にとって40年の空白など存在しない。その間何をしようと、そこにはあらゆる分野をまたいで発揮される、同質不滅の田中品質があるだけだ。
今スグKITE IN CLOUDへ行って聞くがいい。私と共にP-MODELの双璧を成した男の円熟にやられてしまうがいい。
またこんど!!
MANDRAKEのベーシスト関弘美
かつてMANDRAKEのベーシスト関弘美(男子)との会話。
ひ「どんな家に住みたい?」
せ「家の中がまるで外みたいな家」
ひ「ほー。で、その家の外はどうなってるの?」
せ「家の中みたい」
ひ「いいね」
せ「うん、いい」
関弘美といえばやはり変わった個体である。
いったい誰の選択肢に入るのか不明なスージークアトロベースを持ち、鬼のような音を出す。
アクションは大股の太極拳風でロックの辞書に無い妖気を醸し出す。
彼の脱退は非常に残念。
P-MODELまで残っていたら伝説になったと思う。
Q:マンドレイク”というバンド名を考案されたのは平沢さんなのでしょうか? また、名前の由来が知りたいです。
A:それは地下鉄千代田線の中で行方不明になったヴォーカリストと錬金術についての議論をしている時に両者の口から出た名称です。マンドレイクは錬金術で使用される植物です
Q:MANDRAKE当時の平沢さんは髪を長く伸ばしている写真が多く見られますが、最長どの長さだったのでしょうか? 短く切った経緯などあったりしますか?
A:最長は腰までありました。ニューウエーブの黎明期に「もうプログレは終わった」と感じた時に短くしました。
Q:Mandrake時代にテレビやラジオへ出演したことはありますか?
A:ありません。あの時代にMANDRAKEのようなスタイルの音楽を受け入れるTVラジオなどありません。それ以前にMANDRAKEなどTVラジオにとって何のメリットもありません。