作者の死
Roland Barthesによる論文
文学作品の意味は作者の意図によって決まるのではなく、読者がテキストを読む行為そのものによって新しく生まれるという考え方
単なる受け手としての読者から、テキストの意味を生み出す参加者としての位置づけを獲得する
@lililjiliijili: アニメ化の際に原作者がノイズだから消そう
@lililjiliijili: 作るだけ作ってあとは自分が居なければいいのにとあの時はずっと思っていた
「原作ではひとりちゃん(※主人公の後藤ひとり)が水風呂に入るシーンで裸になっているんですが、アニメでは水着にしてもらいました。ぼざろがそういう描写が売りの作品ならいいと思いますが、そうではないと思いますし、覇権を狙う上ではそうした描写はノイズになると思ったんです」
『ぼざろ』『虎に翼』の脚本家 吉田恵里香が語る、アニメと表現の“加害性”
「作者の死」が提唱されるまで、文学作品を解釈する上で重要視されていたのは「作者が何を伝えたかったのか」という意図
作者の思想 / 執筆当時の状況などを分析することで、作品に隠された唯一の「正しい意味」にたどり着けるとされていた
この考えにおいて、作者は神のような存在だった
ロラン・バルトによれば、ひとたび作品が書かれて世に出た瞬間、それは作者のものではなくなる
テキスト(広義の表現と言ってもいい)は、様々な時代や文化の言葉 / 引用 / イメージなどが織り込まれた織物のようであって、特定の個人である作者がその意味をコントロールすることはできない
「作者」という絶対的な指標であった存在が消え失せた(死んだ)場所で生まれる新たな主役こそが「読者」
"la naissance du lecteur doit se payer de la mort de l'Auteur."
「読者の誕生は、作者の死によって贖われなければならない」
Roland Barthes『La mort de l'auteur』─ 1967
作品の意味は、読者がテキストを読み解釈するという行為によって初めて生まれ、読者は自らの経験 / 知識 / 価値観を通してテキストと向き合い、そこに多様な意味を見出すことができる
作品の意味の決定権が「作者」から「読者」へと変容するその瞬間、「作者の死」と「読者の誕生」が起こる
ロラン・バルトは著者の意図が無意味だとも、著者自身の伝記や発言を引用することについて禁じたわけでもない
この主張は、「作者が作品の究極的な意味を独占しているわけではない」というものであって、むしろ「究極的な意味」は存在せずに、ただ無数の解釈の可能性が存在しているだけ
その中には他の解釈より有用でおもろいものもある、ということだけ
作者が作品公開後に手垢を付ける行為が何となくモヤモヤする話に割と共感できたので、zahyou.iconは多分この主張に乗っかりやすそう
でも振り切りすぎも良くないよの自己批判
テクスト論は衰退しました。 - 脱R論
#語彙 #テクスト論 #思考