世の中を二分化する人たちとしない俺たち
…メタに見てみると、「チー牛」などの語彙を積極的に用いる人々と、そうではない自分たち、という分類をやっていて、やっぱり自分はグッドであると思い込もうとしている。そうであれば「せめて、マシと思える分類でやっていく」しかないのか?
「世の中を二分化する人たちとしない俺たち」の二分化
差別主義に対して「差別はNG」と唱えることは別の形の差別、「差別主義者を差別してる」と言えるのか問題。詭弁っぽいけど、差別やラベリング、くだらないカテゴライズはやめたほうが良いと考えていることを、別の形でラベリングしていると捉えるのは無理があるというか、思い詰めすぎみたいな気がする。不寛容にだけは不寛容に。その他のことにはすべて寛容に、みたいな。不寛容を受け入れないのは不寛容か問題。 とはいえ、なにかと「〇〇な人たち」を置くと脳に優しいからそういうの置きがちなので、せめてたまにこういうこと考えたい。
「ただそうあってくれたらもっといいなーと願っているだけ」みたいになりたい
人間の社会性、文化というのは、グループを2つに分けることから始まる、と言っていて
大人 / 子供
男性 / 女性
海 / 山
山の手 / 下町
線路向こう / 線路こっち
川向こう / 川こっち
自分自身をどのグループにカテゴライズするのか、という性質は2歳くらいから始まっているそうだ
2つのグループに特段意味がある必要はなく、2つに分けさえすれば、あとは勝手にこの2つのグループは差別化が進むということだ
差異があるから分類されるのではななく、分類されるから差異が発生する
男性と女性の差においても、実は生物学的な差異よりも、このような差異が大きく働いている