FAKE
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超面白い。ろう者の物語(?)。虚構と現実の境目が曖昧、という概念の擬人化としての佐村河内守氏。謎の包帯が巻かれた指。かおりさんの手話は手話歴2年の俺よりは上手いと思った、普通に、地域の上級とか養成クラス以上の実力者だろう。ところどころ、俺でもわかる単語を指文字でやっていて、ん?と引っ掛かりもするが、その指文字が非常にスムーズで、年季が入ってると思った。時折見せるまもるさんの手話はかおりさん以上に綺麗な手話だった。佐村河内氏の騒動、当時はほとんど気にしていなかった、自分の中ではどうでもいいフォルダの出来事としてはてブとかTwitterみててもその記事はスルー対象だったので、細かいことは分からないが、虚実入り乱れつつ、最終的には嘘とか真実って自分の中にしかないなっていう。それでもボクはやってないのラスト、「俺だけが真実を知っていて、この裁判官を裁くことができる」。障害とは認められないという診断書は「日常生活に支障がない」ということをもっとも客観的に証明するものであるが、淋しいのはアンタだけじゃないを読めばわかるが、聴こえ方っていうのは人それぞれで、数値化できないものであるから、まもるさんが「聞こえない」といえば、それは聞こえないと、本当のことを言っていると思うしかない。同時に、いくら本当のことを言っていても、人々から本当と思わなれなければ、それは本当のことではないということになるだろう。俺が本当だと思えば本当だし、俺が嘘だと思えば嘘なのだ。ラストシーンは見事という他ない。「最後に、まもるさんは僕に今隠してることはもうないですか?」という質問の後、30秒とかそれ以上ぐらいの沈黙で終わり。沈黙が続いてる間、監督はニヤニヤというか、めっちゃいいの撮れてるって思ったりしてたのだろうか。あの後に、何かしらの言葉があったとして、それは意味を持たないというか、あの沈黙の後では蛇足になってしまうだろうから、あそこで切るのは映画の編集としてはもう神の一手というか、大正解だと思う。あるいは、「沈黙してください」的な指示があったかもしれないし、ドキュメンタリーというのも結局は虚実が曖昧である。ジャーナリズムとドキュメンタリーは違うし、森達也監督は、エンドロールで自分の名前を真ん中で止めるタイプの監督だ。俺はメイキング映像やドキュメンタリーが好きで、ゴシップ好きなとこも繋がるが、本当のことが撮れてる感、本当っぽさ、そういうところが好きだが、本当っぽさっていうのは、言ってしまえば作れるからな。カワイイはつくれるし、Authenticityもつくれる!ドキュメンタリージャパン! 『FAKE』(フェイク)は、2016年制作の日本のドキュメンタリー映画。ゴーストライター問題が発覚し、渦中の人物となっていた佐村河内守を中心に、彼を取材するテレビ関係者、真偽を確かめに来る海外のジャーナリストなどを1年4か月に渡って追ったドキュメンタリー作品である。 概要
聴覚障害をもちながら『交響曲第1番《HIROSHIMA》』などを作曲して、一時は現代のベートーベンと持ち上げられた音楽家の佐村河内守。しかしその後、神山典士が持ち込んだ週刊文春掲載の告発記事により、「作曲はしていない」「実は耳が聞こえるんじゃないか」と一転して非難の的となる。 タイトルとなる「FAKE」には見せかける、いんちき、虚報などの意味がある。はたして佐村河内守はどこまで嘘をついていたのか。真実は何か。ドキュメンタリー作家・森達也が15年ぶりに臨む単独監督作品。キャッチコピーは「誰にも言わないでください、衝撃の12分間」。
撮影は2014年9月から2016年1月にかけて、神奈川県横浜市内の佐村河内の自宅を中心に撮影が行われた。監督である森はジャーナリズムに基づいたノンフィクション作品ではなく、演出の入ったドキュメンタリー作品であることを強調しており、画一的な報道がなされる上での別視点の提供であるとしている。(森は、ジャーナリズムを客観や中立を標榜し社会正義を体現しようとするもの、ドキュメンタリーは自分の主観を出すもの、として区別している)
評価など
映画ライターの村山章は「誰もが抱える下世話なゴシップ欲へのやたらと面白い返答であり、感動的なメロドラマであり、エキサイティングな音楽映画でもある」と評論した。
上手いこと言うなあ、確かに。やたらと面白い、エキサイティングな音楽映画。
出演
スタッフ
制作:「Fake」制作委員会
挿入歌「Requiem」(作曲:佐村河内守)