Antimemetics
多くのリベラル派は、真実でない有害なことを信じる人間は根本的に愚かで有害だと心のなかでは思っていたかもしれないが、それを口にするのは下品なことだとわかっていた。
インターネットは証拠という形態で情報を伝達するためのチャネルではなく、むしろミームというかたちで文化を伝達するチャネルである、という考えだ。ユーザーはたくさんの事実を集めてそこから世界観を構築していくのではなく、まず自分の世界観と合致するものを選び、それを基準に事実を評価するのだ。
そしてその世界観の採用は、合理的思考というよりも願望に基づく。つまり、自分がどういう人間でありたいかに関わっているのだ。科学に従う洗練された人間になりたいのか? それとも、体制の上品な仮面の裏を見抜ける懐疑的な人間になりたいのか?
競争による攻撃性が蓄積して限界を超えると、共同体は生け贄を選んで儀式的に排除する。このとき人々が生贄として選ぶのは、自分たちと似ている者ではなく、自分たちとは決定的に違う者だ。この現象は、右派のあいだではさまざまなかたちの外国人嫌悪や制度側の人間に対する根本的な不信として現れ、左派ではいわゆるキャンセルカルチャーやそれに伴う検閲的な空気として現れた。
いずれの側も、それは自分たちの境界線を守ろうとする試みだった。言い換えれば、信頼の輪の内側にいる者と外にいる者とを識別する行為だったのだ。
ミームが記憶にずっと残りやすく拡散しやすいものであるのと逆に、反ミームは記憶しにくく自己増殖しにくいものだ。ミームが多くの害をもたらしているのなら、反ミームを育てることがその対抗策になるかもしれない。
なぜわたしたちは、明白かつ重要な問題を集団行動によって解決できないのか? 言い換えれば、なぜわたしたちは「よいもの」を手にすることができないのか? 「わたしたちが重大なテーマに対して進展できない理由は、少なくとも部分的には、それらのテーマに共通して潜在する反ミーム的性質によって説明できる。つまり、その概念を頭のなかで最優先させておくのが奇妙なほどに難しいという性質である」と彼女は述べる。
そのような反ミーム性は、ネット上で飛び交う瞬間的でくだらない自己主張合戦に押しやられてしまう。「ミームに生活を支配されるなかで、その運び手としての役割を完全に受け入れてしまったわたしたちは、自分自身の行動やアイデンティティを、最も強力な──かつ、最も原始的で低俗であることも多い──欲望モデルに合わせて変容させている。この傾向が極端に進めば、人間が新しく独創的な方法で何かを築く能力そのものが恐ろしいほど失われかねない」
反ミーム性は「長い潜伏期間をもち、非常に拡散しにくい」ので、「元の文脈から逃れて」「免疫力」の高いネットワークに入り込めば、「反発」という抗体によって早々に排除されてしまう可能性がある。そう考えると、反ミーム性という概念は単に「複雑なニュアンスのあるもの」をおしゃれに言い換えただけの表現、「理解しにくいもの」「簡単には辿り着けない洞察」の類義語のようにも思える。
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松島: ユヴァル・ノア・ハラリも言っています。真実っていうのはコストがかかる。アクセスするのにも、理解するのにもコストがかかる。 めちゃくちゃ脱線するが、この後最後にアンスコム江莉奈サンがおすすめしていたはくだけキュッとリフレ、速攻でRentioで予約した ---
「弱いメッセージほど時間的に遠くまで届く」を言い換えると「本当に大切なメッセージは弱い(短期的に淘汰されやすい)」ということでもある。それにキャッチーな言葉を与えたものが、Antimemetics、反ミーム性ということか。ビビッときた気がする、この言葉に。 時間的な距離に対して、memeじゃなくてgeneはどうなんだろう、弱いgeneほど長く残るのだろうか。強さ、弱さとは。感覚的には、geneと同様の性質がmemeにもあると考えられそうだけど。