村上森造さん
森造さんは、干拓の埋め立てや大浦神社などに多額なお金を出しました。 村上森造さんは自分を育ててくれた郷土(寄島町)の感謝としてたくさんの寄付をされた。 道路の新設や改良工事などのお金を出してくださった。
村上森造さんは、干拓地の埋め立てにも寄付してくださった。 https://scrapbox.io/files/6153d653b78df0001d8815f6.pnghttps://scrapbox.io/files/6153d66fed871c00241e9715.png
https://scrapbox.io/files/6153d711998778001db5b178.png寄島の早崎地区に銅像がある。 「 村上森造さんの一生 」
家業は豆腐の製造業で毎日朝早くから起き、仕事をして両親を助けていた。
そして豆腐を学校へ行くまで配っていた。
寒い中でも一生懸命働いていた森造の姿を見ておばさんが「お手伝いしてて偉いね」と感心していると森造は「僕は、人を使うような、もっと大きいことをやりたいんだ」と答えたらしい、この頃から森造はとても大きな夢を見ていた。
森造さんは成績も抜群だった。
学校が終わり、宿題をすませるとすぐ、真田編みをしていた。森造は長男だった。
森造さんは遊ばずお金を稼ぎ自分の学用品のためにも使うが、余ったお金は弟妹たちに分けて、両親に心配をかけないようと頑張っていたが、こっそり泣いていたという。
森造さんは小学校を4年生で卒業して豆腐を売っていた空いた時間には塩田の仕事もやっていたという。 森造さんは真田業が発達して行くに連れ海外への輸出も考えていた、そして海外へ渡って行く流通経路を一生懸命学んだ。(まだこのときは子どもだった)
森造さんは19歳になり故郷を旅立ち神戸へ働きに出た。そこで、貿易のルールを徹底的に学び人脈を広げるため一生懸命努力した。
実際に村上商会をつくり、外国との貿易を始め事業は発展し、麦かん真田で作ったもの外国へ輸出した。 栄信組という会社もつくった。そこから備中に麦かん真田で作ったものを集荷し地域の発展のために力をつくした。 神戸で、事業を発展させて、「神戸米殻取引所理事長」、「神戸有価証券社長」、「神戸商業会議所議員」など様々な仕事に努めていた。
森造さんはたくさんの収入があっても初心を忘れず故郷の感謝にあふれ、たくさんの寄付をされた。
昭和1942年に亡くなられた。
参考「頌徳積善の人村上森造翁」