動物化するポストモダン
これ平間さんの感想が欲しいなw
p147
「見えるもの」が複数ある世界
しかしこの限界は、HTMLの不備というより、むしろ、ウェブの世界が、印刷物の世界とはまったく異なった論理で動いていることを示したものだと考えたほうがよい。説明を簡単にするため、ここで「見えるもの」と「見えないもの」の対立という考え方を導入してみよう。 印刷されたページを目の前にするとき、私たちは、まず印刷されたテクストを見て、つぎの意味に遡っている。これはつまり、「見えるもの」から「見えないもの」へ遡っているということである。そして逆に自分で文章を書くときにも、意味を具体的な言葉の列に落とす、つまり「見えないものを見えるものに変える」という発想が支配的だ。
この発想はじつは、単なる印象論にとどまらず、十九世紀から二十世紀にかけての学問をあちこちで規定してきたことが知られている。これは現代思想では「音声中心主義」と呼ばれ、さまざまな検討が加えられているのだが、ここではその細部に踏み込むのは止めておこう。いずれにせよ、印刷物の表現の世界は「見えないものを見えるようにする」という論理で動いてきた、ということさえ頭に入れておいてもらえれば十分だ。
ところがウェブの世界はそのように作られていない。そこではまず「見えるもの」の状態が定かではない。繰り返すが、ウェブページの本質はHTMLで書かれた一群の指示であり、ユーザーに見える画面は、それぞれのOSやブラウザ、さらにはモニタやビデオチャップまで含めた環境による「解釈」にすぎない。しかもウェブページはブラウザを通して見なくてもよい。実際にそのソースコード(HTML)は、<h1>などのタグが入ったテクストとして、エディタで簡単に開くことができる。そしてそれもまた、テクストとして表示されているかぎりは、やはり「見えるもの」である。このような意味で、ひとつのウェブページには、見えるものがつねに複数あると言うことができる。
だから、ウェブページを読むときには、従来のように「見えるものから出発する」という単純な前提を取ることができない。具体的に言えば、ウェブページの質を判断するときに、ひとつのOS、ひとつのブラウザ、ひとつのマシンで見たときの印象を基準にすることはできない。ある環境できわめて効率よく、美しく作られたページが、別の環境ではまともに表示すらされない、というのはよくあることなのである。したがってこの世界では、ページの「デザイン」は、見える部分のみではなく、むしろ、できるだけ多くの環境で問題なく動き、できるだけ同一の外見を保つことのできるHTMLで書かれているかどうか、見えない部分も含めて判断されるのだ。ここには価値観の大きな変化がある。印刷媒体では確固とした見えるものが出発点だったが、ウェブの世界では、まず複数の見えるものの比較検討から入らなければならないのだ。
「見えないもの」の不安定な位置
そしてウェブの世界では「見えないもの」の位置も安定しない。というのも、HTMLがテクストとしても開けることにしめされているように、ウェブでは、ある環境で(ブラウザで)見えないものが、環境を変えれば(エディタを使えば)すぐにみえるものになってしまうからである。ウェブページをブラウザで見ているときには、その外見を規定している構造的な情報は見えない。しかしその情報も、HTMLを開けば、タグやスクリプトとしてはっきりと見えるようになる。
たとえば、あるウェブページのレイアウトがどのように作られているのかを知りたければ、HTMLを開くのがもっとも早い。そこには、どこにどのくらいの大きさで面やイメージが配置され、文字色や背景色がどのように設定されているのか、すべての指定が具体的な数値として記されているからだ。そのような数値は、印刷されたページのレイアウトでは、自分で定規でも使って測らないかぎり決して手に入らなかった。そして、HMTLでは直接扱っていない特殊なデータ(プラグインで再生されるデータ)の情報も、適切なアプリケーションさえあれば、すべて解析することができる。
しかもHTMLには、そのような視覚的な構造の情報だけではなく、意味的な構造の情報も含まれている。たとてば、さきほども触れた<h1>を始め、定義語を表す<dfn>や略語を表す<abbr>など、HTMLには、文字列の役割を直接に指定するタグがいくつも定義されている。印刷媒体ではこのような役割は、視覚的なデザインを通して間接的に伝えられるほかなかった。たとえば、<h1>の昨日は文字列を大きく印刷することで、<dfn>の機能は改行や太字で、<abbr>の機能は直後にカッコを配して言語を明記することで、間接的に果たされるほかなかった。しかしHTMLは、そのような役割すら見えるものにしてしまう。言い換えれば、印刷媒体ではあくまでも見えないものだったここの文字列の役割が、ウェブでは、HTMLをエディタで開きさえすれば、原理的には見えるものに変えられてしまうのである。
ある環境での見えないものが別の環境では見えるものになる。というこの性質は、ウェブにかぎらず、もともとコンピュータの世界に共通している。私たちはいま、グラフィカル・ユーザー・インターフェイス(いわゆるデスクトップ画面)を用い、アプリケーションソフトを動かしてコンピュータを操作することにあまりに慣れている。しかし、計算機の基本は、あくまでも一連の数や文字により書かれたプログラムであり、さらにはその基礎にある二進数の数列である。したがって、デスクトップを「見る」ことでコンピュータを操作しているとき、その背後には、じつはプログラムや二進数がみえないものとして存在しているはずなのだ。
わたしたちは普段あまりそれを意識しない。しかしコンピュータは本質的に、そのような見えないものも、環境さえ整えば即座に見えるものにしてしまう性質をもっている。アプリケーションのインターフェイスの背後に隠されたプログラムを見ることは、適切なソフトウェアさえ手に入れ、復号化(これは「逆コンパイラ」と呼ばれ、実際には禁止されていることも多い)を施せば簡単にできる。普通にコンピュータを使っているかぎりこのようなことは意識しないですむが、もし、ウェブも含め、コンピュータを基礎とした新たな文化について考えようとするのならば、このゆな原理的な特徴を無視するわけにはいかない。
データベース消費はウェブの論理に似ている
ウェブの世界では、印刷物の世界と異なり、「見えるもの」は複数あり、「見えないもの」の位置も安定しない。したがってそこでは、表現者が見えないものを見るものに変えることで作品を作り、鑑賞者が逆に見えるものから見えないへ遡る、という従来の論理は通用しない。というのも、ウェブの世界では、多少自覚的な鑑賞者ならば、単に見えるもの(画面)を見るだけではなく、ソースコードを開き、見えないものも見えるように変えてしまうからだ。
それは前章で言えば、ノベルゲームのユーザーが、システムを解析し、画像やシナリオを吸い出したことに相当する行為である。ユーザーからのこの能動性があるかぎりで、ウェブの世界、あるいはより広くソフトウェアの世界では、「作品」の単位は、単にユーザーが見るものだけではなく、そこで見えないはずのものまで含めて定義されねばならないことになる。具体的に言えば、ウェブページであれば表示画面だけでなくHTMLまで含めて、ノベルゲームであればドラマだけでなくシステムまで含めて、アプリケーションであればインターフェイスの美しさだけでなくソースコードの効率性まで含めて、評価の対象とならねばならないのだ。ウェブページの文化は、「ページ」という比喩のせいか、あるいは日記や掲示板など文章中心のサイトがいまでも多いせいか、印刷文化の延長として捉えられることが少なくない。それは本質的には、ゲームやソフトウェアにはるかに近い論理で支えられた文化である。
インターネットの構造はポストモダンの世界像を反映している。したがって、その構造が生み出したこのようなウェブの論理も、実際にはインターネットやコンピュータの世界だけで見られるものではない。だれでも知るように、この数年、あらゆるジャンルの表現は、よりインターネット的に見え、よりコンピュータ的に見える外見を求めて雪崩を打って変貌を遂げている。そしてその結果、ウェブの論理は、技術的にはそれらと無関係な多くのジャンルにも広く深く浸透し始めている。