つまり、20世紀後半以降の世界はビジュアル・ファーストとも言える。
もちろんWWWのサイト、いわゆるWebサイトも、音がないものがほとんどだ。昔は開くだけで音楽が鳴るようなサイトもあったが、そういうのは嫌われるのでなくなっていった。数少ない例外がYouTubeなどの動画サイトである。 iPhoneやAndroidのアプリも、広義にはWWW技術の援用である。そこにパフォーマンス的な違いや管理的な違いはあったとしても、本質的には変わらない。 僕はスマートフォンのゲームを熱心にやるが、基本的に音は切っている。
音によって自分の集中を乱されたくないという気持ちもある。
さて、ところで、我々はどうしてこんなに視覚優位の世界に生きているのだろうか。
テレビの出現まで視覚優位なメディアはなかったのだろうか。
もちろん違う。
ラジオの前は新聞や雑誌、書籍といった視覚メディアがメディアのメインストリームだった。
それを実現する活版印刷技術の発明されるより前は、舞台演劇や教会での礼拝など、聴覚が優位な時代があった。
このように、人類の扱う情報メディアは、聴覚優位と視覚優位を交互に繰り返しているという性質がある。
それはメディアが進歩し、浸透すればするほど、そのメディアが陳腐化していくからだ。
メディアの浸透圧が高まれば、新しいメディアの出現する可能性も高まる。
そもそも音がなかったWWWの世界に、YouTubeやNetflixが登場し、テレビでもYouTubeやNetflixを見ることが当たり前になった時代、我々はすでにWWWより一歩先の世界の扉を開いていることになる。もう文字で読む情報は沢山なのだ。 そこで大胆にも、筆者はWWWの次に来るメディアの姿を予知してみたい。
WWWが増強したのは、明らかに「視覚」であり、「書かれた言葉」であり、「双方向性」だ。
従って、衰退させたのは「聴覚」であり、「話された言葉」であり、「権威」であると言える。
基本的に情報発信の非対称性が高まれば高まるほど権威は増強され、誰でも発信できるものになるほど権威は失墜する。
今のWWWの世界では権威はほぼほぼ存在しないといっても間違いではない。
大臣だろうが教授だろうがTwitterの失言で失職するかもしれないご時世である。
反対にWWWによって回復されたものは、過去の歴史の蓄積や、知識や経験、そのアーカイブといったものになる。テレビはどうしても放送帯域が限られるので、過去の全ての歴史を常に参照できるようには構造的にならない。しかし、WWWによってサーバーさえどこかに置いておけば、誰でも過去の歴史やアーカイブにアクセスできるようになった。重い百科事典を持ち歩かなくても、いつでもWikipediaやオックスフォード英英辞典を参照することができる。 このアーカイブ的な性質と、聴覚的な性質によって出現する新しいメディアとは何か。
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これは、これまでの視覚優位な世界に対して、聴覚優位な世界を意味する。
たとえば、AlexaやSiriは、音声を起点としてWikipediaを検索したり、道案内をしたり、天気予報を告げたりすることができる。「話された言葉」が起点にあるため、これはAudio Firstなユーザーイリュージョンと言える。