ヴァーチャル(virtual)という言葉は、日本では「仮想的」とか「虚構的」という意味に使われることが多いけれど、そのため「リアル」(real)に対比されることが多いのだが、語源的にいうとそうではない。
from 人間はガジェットではない
ヴァーチャル(virtual)という言葉は、日本では「仮想的」とか「虚構的」という意味に使われることが多いけれど、そのため「リアル」(real)に対比されることが多いのだが、語源的にいうとそうではない。
ピエール・レヴィ(ミシェル・セールやカストリアディスの弟子)が『ヴァーチャルとは何か?』(昭和堂)で説明していたように、ヴァーチャルとは「可能的に存在しうるもの」「可能的な場や思考」のこと全般を言う。
そもそも「ヴァーチャル」はラテン語やイタリア語の「ウィルトゥス」から派生した言葉で、「潜在性」とか「潜勢力」といった意味をもつ。ということは、ヴァーチャルに対比されるのはリアルではなく、実は「アクチュアル」(現実化された事態)であり、リアルに対比されるのは、実は「ポシブル」(可能的事態)なのである。
それはともかく、ラニアーはネット社会、インターネット技術、IT思考の将来が先細りするか歪んでいくだろうことを見越して、先手で「VR」を持ち出したのだったろうと思う。そうしたくなったのは、すでにマルチメディア技術やそれを支える技能感覚に、ラニアーからすると閉塞的になりすぎるか、開放的になりすぎるか、どちらかに振り切ったコンピュータ・テクノロジーばかりがふえてきて、その両方ともが産業界に手ごめにされつつあったからだった。
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ピエール・レヴィと著書『ヴァーチャルとは何か?』
ラニアーは早くからファイル利用という考え方にも疑問を感じていたらしい。
もともとテッド・ネルソンが構想した「ザナドゥ」などのハイパーテキストのプランには、ファイルの縛りなんてなかったのに、Unixがファイルをもち、Macもジェフ・ラスキンの仕事をスティーブ・ジョブズが引き継いでからファイルを入れた。Windowsとなると、まるごとファイルばかりでできている。ラニアーはこれに警戒を示した。
なぜファイルが問題なのか。ファイルというソフトプログラムは、人間が興味をもったり表現したりするものは必ず小さなクラスター(かたまり)に切り離すことができるという考え方にもとづいて設計されている。そのクラスターは必ずヴァージョンがあり、それらを操作するにはファイルのためのアプリとマッチしていなければならないというふうになっている。
これではまずい。人間がファイルに見合うガジェットになっていく。人間にひそむ可能性が切り刻まれて、どんどんマッシュアップされていく。
もともとインターネットは、核攻撃にも耐えられるようにと冷戦時代に考案されたもので、一部が壊れても全体は稼働できる構造になっている。裏を返せば、全体がわからなくても部分は理解できるということだ。このしくみの中核にあるのはパケット交換である。
パケットはファイルを細かく分割したもので、インターネットのノードからノードへと受け渡されて移動していく。陸上競技のリレーでバトンが渡されていくようなものだ。宛先はパケットに書かれている。あるノードから次のノードへパケットを渡そうとしたとき、受け取ったという確認が返ってこなければ、送信先のノードは別の経路をトライする。指定されているのは宛先であって経路ではないからだ。これなら攻撃を受けても大丈夫だろうと判断されたのだ。
こうしてインターネットはファイル分割とパケット交換という二つの“内容輸送具”にもとづいて分散型のアーキテクチャーをとることになったのだが、そのぶんインターネットにどんな情報や知識が流れているかわ把握するのが困難になっていった。一つひとつのパケットはファイルの断片にすぎないのだから、流れてゆくパケットの中身を調べても、分割される前のファイルの中身を推測するのは難しい。
こうした事情あれこれから、もとをただせばファイルをマルチメディアの基本に据えたのが問題だったのではないかというのが、ラニアーの判断だったのである。
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