生の人間性
なんか神聖視されがちな概念
こういう自己啓発的な文脈でもよく出てくる
雑音、雑念を一切排除した静寂さとゲルの中でのウォッカは、徐々に我々の鎧をはぎ取ってくれた。そして、私にも本来の「ドジでビビリな弱虫の僕」がよみがえってきた。
バリー・オライリー, アンラーン戦略
修行とかもまさにそう
外界を切り離して内面を見つめる
メタ認知の訓練と捉えるとそれは脱homo sapiens的だ 確かに生の感情・ひとつの動物であることを受け入れられることで得られる境地、精神の安定と価値の整合性というのはあるのだろう
「外界」というのは必ずしも制御できない物なので失うこともある
それを受け入れることで人に依存しない余裕と誠実さをを手に入れるのかもしれない
ただ、「自分自身」が無限に退行しうる構造的欠陥を抱えている
身体は外界なのか内面なのか?
こういう価値観では身体や精神は「自分の物」という扱いをすることが多い
身体や脳へのダメージによって身体も精神も変容する
記憶・感情・思考・意識すら欠損することがある
「生身」というのは「健康な成人の肉体」ということなのか??
栄養状態や医療によって「健康な肉体」は異なる
先進国に住んでいても事故や病は結構ある
そのときどうするの??
言語・世界観などの基本ミームは外界なのか内面なのか?
余りにもいろいろな仮定を捨てると、意識もミームも維持できる保証が無いのでただの動物として生きるしかなくなってしまう
もしかすると生死の損益分岐点を考える作業なのかもしれない
X以上の前提を捨てるなら死を選ぶ方が良いと
それによりX以上である現状の生を肯定する
インターネットに依存したらだめなんか?
治安が維持されている社会に依存したらだめなんか?
言葉がついてる物、自己認識のすべてが人間の産物なので、単純に「全人類に共通の文化」という線を引いたときに、それが広いか狭いかという捉え方もできる