デジタルネイチャー
計算機技術の発展速度が高まり、(人間による)予測が不可能になった状態
人間(homo sapiens)の特別性が完全に喪失した状態
落合陽一の概念
homo sapiens中心主義なユヴァル・ノア・ハラリの思想とは「直交する」と表現していた
国民国家のような、広いコミュニティに対する統一的思想が不可能になる可能性が高い
仏教の皮を被せたe/accだと思う。
これを受容するというのは、自然を受け入れるのと同じ形をしている
大域的には理解していないものに囲まれつつ、局所的な理解をもとに豊かに生きること
これを「良い」というのは価値観だ
つまり、以下の3つのうち2つしか満たせない
理解できること
豊かさ
(各個体が)そのままでいること
理解・豊か: augmented human
理解・そのまま: 進歩の大きさ and/or 方向性を制限すること
豊か・そのまま: digital natureの価値観
ただ、xyxはそこまで計算機と人間の性能が乖離するとは考えていない (AHを除いても)
論1:
なぜなら、生物の情報処理システムの基本要素はランダウアーの原理の限界と1~2桁しか変わらないから
タンパク質による処理の話
cf. Principles of Neural Design
一方で、全体としての設計には5桁ぐらいのロスがあるかもしれない
ここをどう考えるか?
現代の計算機は全くこの水準に到達していないし、到達したとしてもその先は無限に広がってるわけではない
なので、平衡点が移動するだけで、世界全体の相転移は起きないと思ってる
Mooreの法則が無限に続くわけでもなく、エネルギーを無限に使えるわけでもなく、光速を超えるわけでもない
人間が不変だったとしても時間をかければ理解できる
つまり未来に追いつくことができる
集団としては
これは近代文明の延長線上にギリギリ存在する
エネルギー供給の問題は解決するが、エネルギー放出の問題は文明の形を維持したままできない
e.g. 地球を500℃とか10Kで動作させれれば計算機の地平は広がるが、その時に人間身体は維持不可能
ここで選択が発生し、少なくとも文明全体がデジタルネイチャーと共存するモデルは破綻する
身体を捨てるか、計算機を隔離するか、計算を伸ばさないか、何らかの選択を迫られる
ただ、数桁の変動は間違いなく発生し、その程度でも人類の文明上最大の転換点になるのは間違いない
論2:
情報の流通を制限するのは簡単
国土の支配と暴力の独占がある場合、デバイス・インターネット・etcは全て簡単に制限できる
現に、あらゆるレイヤーにバックドアやら開示請求のための法律やらが存在している
これの運用を変えるだけで容易に制限できる
情報・計算が自然に至るほど制御不能で自由であり続けるというのは、特に根拠がない
splinternet
論3:
原始の時代、物語はあった
夢見ること、語ること、祈ること
自然が理解できなくても、物語を作ることはできる
「理解不能な環境に囲まれる」で停滞しないのではないか
語ることが力を持つとき / 魔法があるとき
本当に力を持つ宗教ができる
その先に何らかの構造がありそうな気がしている
循環文明観?