『日々は静寂に灯る光』
2024年7〜10月の日記をまとめて加筆した日記本 オンデマンド印刷
本文モノクロ
フルカラーカバー付
サンプル
書影
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本文サンプル(画像)
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本文サンプル(テキスト)
まえがき
はしがき、まえがき、はじめに。呼び方はなんでもいい、本文の前に挟まるこの部分を序文という。大抵の本にはあるものだから特に疑問も持たず読んできたけど、自分が書くとなれば話が変わる。序文って、なんなんだ。とりあえず手元にあるもので調べてみる。
単行本などのはじめのところにそえて、その本をつくった趣旨や方針などをのべた文章。序。はしがき。
(『三省堂国語辞典』第八版「序文」の項)
さすが「三国《サンコク》」、過不足なく分かりやすい説明。でもこれを読んでわたしは、大上段に構えて語れるほどの方針をそもそも持っていないことに気付いた。無計画ぶりを反省しつつ、もうちょっとヒントが欲しくて、机上に積まれた資料をあさる。
序文は読者の理解を助けるための〝前口上〟ともいうべきもの
(日本エディタースクール『本の知識』二〇ページ)
前口上! 即座に脳内で「やあやあ、我こそは九州に住まう書き手の端くれ、ここに推参」みたいなフレーズが生成されるが、たぶんそういうことじゃないよね。事態はいっそう混沌としてきた。まえがきって何なんだろう——そもそも、この本はなんなんだろう。
去年のはじめ。人生初の同人誌を出すことにして、日記をまとめた本でいこうと決めたあと、わたしはその制作物を何と呼ぶべきか悩み続けることになった。仕事の休憩時間や寝る前にちょこちょこと書き留めた短文を大幅に加筆した結果、「その日の出来事」から勢いよく脱線し、幼少期の思い出から過去に書いた文章のふりかえりまでが入り混じったその文章を「日記」と呼んでいいものか、分からなくなったのだ。そもそも、後日加筆修正した日記って日記なのか?という単純な疑問もあった。そういった迷いから抜け出せずに発行日を迎えたわたしは、その本を「日記に加筆したエッセイ本」と言ってみたり「日記9割エッセイ1割」と表現してみたり、どっち付かずの言いようで通したのだった。
その迷いに対する答えをここに——二冊目の序文に書ければおさまりがよいんだろうけど、わたしはそれを放棄しようとしている。何が日記で、どこからが日記じゃないかなんて考えても仕方ない。その日の出来事をありのまま書き記すことなんて、どだい無理だ。
日々の出来事や、それに付随する感想、感情なんかを言葉にして残すとき、切り捨てられるものと増幅されるものの両方が存在する。書き手は意識的にしろ無意識的にしろ、その判断を無数に下しながら文章を紡いでいく。言葉を選ぶという行為はとりもなおさず、何を書いて何を書かないかを選別することだ。だから、「その日の出来事を書いた文章」は「その日の出来事」をそっくりそのまま真空パックしたものにはなり得ない。「感情をしたためた文章」は「目に見えない感情というものを可視化するために、言語というツールで再構成を試みた」ものでしかなく、どんなに緻密であろうと、その時に抱いた感情そのものとは違う。
わたしは文章を書くたび、夢の中で見た非実在の動物を粘土で再現するみたいに「なんか違う」だの「こうじゃなかった気がするけど、自分の技量だとこのくらいしか表現できない」だのとモヤモヤしながら、足りない部分を指で均《なら》して補う。完成したからではなく能力と時間の限界のために区切りをつけたそれを「よくできてるね」と褒められても、真っ直ぐに受け止められず「いや、実物はもっとすごかったんだよ」などと返したりする。それは謙遜や自虐というより、わたしにとってはただの事実で、後悔の発露にも近い。あの時に見たものや感じたことを満足いくかたちで表現できていないという思いが常にある。書いている間、ずっと悔しい。これからも、ずっと悔しいんだろう。
序文について考えはじめた瞬間から脳裏に浮かんでいるものが一つある。大好きな漫画『ガクサン』の、『「はじめに」から始めろ』という台詞。学習参考書の出版社に勤め始めた主人公が、巷にあふれる参考書の違いについて先輩社員に訊ねたときに返された言葉だ。
「『はじめに』には どういう意図でこの本を作ったのか どういう学習者に向いていてどのように利用すべきか なんなら著者の教育理念や社会への問題提起まで書いてある場合もある」
「『はじめに』で本の方向性や著者の考え方がわかる」
(佐原《さはら》実波《みは》『ガクサン』一巻 四七ページ)
日記に方針はないけれど、方向性なら書いているうちに見えてくる。わたしの場合それは、悔しい悔しいと歯噛みしながらも諦めきれずに言葉をこねくり回した痕跡であり、軟弱で怠惰な自分も少しは実のある毎日を過ごしているんだと希望を持つためのセルフケアであり、身近なひとたちに「一応こんな感じで元気にやってます」と伝えるための遠回しな近況報告だ。起きたことの記録を書き留めることが、これから先に起こることを乗り越える支えになってくれる、ような気がする。だからわたしは書くことを細々と続けている。
ここまで分かれば、口上だって怖くないかもしれない。
やあやあ、それでは始めてみようじゃないか。これがわたしの日記本だ。
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