禅
今北洪川「蒼龍廣録」にこんな言葉があるという ※「いまを生きる禅語」(横田南嶺、阿純章 致知出版社)より
山野学者を鍛錬するに別事無し(私が修行僧を鍛えるのには、特別なことはしない)
大凡、世俗の学師は其の日々に得ること有らんことを欲す(世の先生がたは、日々、得させようとするが)
吾は其の日々に損すること有らんことを欲す(私は、日々、失くさせようとする)
之を損し又損してしかるのち損する所無きに至る(失わせ、失わせ、なくすものが無いところまで追い込む)
始めて固有の大道を自得して以て手の舞い足の踏むを知らざらせしむ、是れのみ(そこに至って始めて、己自身の大道を自得する、そうすると、自ずと舞い踊らずにはいられない境地に到達する、これしかない)
是の故に仏祖を以て来る者は、吾仏祖を奪い(お釈迦様への尊敬心を持ってきたものには、それを奪う)
聖賢を以て来る者には吾聖賢を奪う(お悟りを得たいと思ってきたものには、それを奪う)
意見を以て来る者には吾意見を奪う(自分の意見をもってきたものには、以下同)
学識を以て来る者には吾意見を奪う(お勉強をしてきたものには、以下同)
弁聡を以て来る者には吾弁聡を奪う(弁舌や頭の聡明さを、以下同)
世知を以て来る者には吾世知を奪う(世間の知恵を、以下同)
単々に奪いもち去って只ただ汝が皮膚脱落し了って一真実の存せんと欲するのみ
此の外吾別に希望する所無し
禅で目指されている境地は、空海によって言語化された十住心論と、まったく変わらない
しかし同時に、そこに至るためのアプローチが、全く異なる
禅の人たちには、本当に正しい教えが、読んでわかるものではない、という信念がある
お勉強をしてわかるものでもない
手取り足取り教えて、わかるものでもない
自分が禅をどこまで理解しているのか、などと言えたものではないが、確かにそう思う
一方で、あちらの世界に、リアルに弟子入りはしたくないなぁ、とは、思う
その必要はないだろう、と
そこまでしないと、悟りを開けない、なんてことはないだろう、と
事実、お釈迦さまだって、色んな変遷はあったにせよ、最終的には非常に穏やかに悟りを開かれたわけなのだし
禅の人たちがファナティックに修行に明け暮れがちだったり、そのことがとかく喧伝されがちなのは、悟りを制度化するせいなのだろうと思う
むしろ、俗世間の日常、浮き世の四苦八苦のなかで開悟すればいい
そんなことを言いながらも、いくつかの禅書や公案に触れたことは、自分の人生において、かけがえのない出来事だった