遼来来
遼来来とは「三国志演義」に登場する張遼の猛攻ぶりを恐れて伝えられていた言葉である。意味は「張遼が来たぞ!!」と言った感じである。 (なお、三国志での公式な記述では「遼来遼来」というのが本来の正式表記)
また、この言葉を聞いた子供が泣くのをやめたという逸話から、「泣く子も黙る」の語源ともなっている。 ところで、「遼来々」(張遼が来た)ということばを聞いたことがあるでしょうか。呉では子供が泣いた時に、「遼来々」とおどせば、泣き止まない子はなかったというのです。孫権軍との戦いで活躍した張遼が、いかに呉の人に怖れられていたかを示すエピソードといえましょう。三国志人気の高まりにともなって、最近ではこの「遼来々」ということばを知っている人も増えてきました。 ところが、このエピソードは正史『三国志』やその注には見えません。また、小説『三国志演義』では、似たようなことは書かれているものの、「遼来々」ということばは出てきません。実はこのエピソードは、唐代に著された児童用教科書『蒙求』の注釈にあります。しかし、そこに見える泣く子を黙らせることばは「遼来々」ではなく、「遼来遼来」です。つまり、正しくは「遼来遼来」なのです。 それでは、なぜ「遼来々」が人口に膾炙してしまったのでしょうか。その答えは、長らく日本の三国志文化のスタンダードとなってきた吉川英治氏の小説『三国志』にあります。 吉川『三国志』が、中国小説『三国志演義』に直接もとづいたものではなく、江戸時代の湖南文山による邦訳『通俗三国志』を翻案したものであることはつとに知られています。この『通俗三国志』には、孫権軍との戦いにおける張遼の活躍を描いた後に、呉では「遼来遼来」と言えば子供は泣き止んだというエピソードが加えられています。 https://gyazo.com/c3735b66bde9cf92e73425400553fae3
(...)この日の合戦あまりに烈しふして、呉の勢おびただしく討たれしゆへ、人みな張遼が名をきくことを怕れ、遼来遼来と申せば、江南の小児はあへて夜啼をせず、と言ひ伝たり。
このエピソードの出典となった『『蒙求』』は、平安時代以降、日本でも教科書として用いられ、江戸時代には数多くの刊本が出版されました。湖南文山が、当時よく知られた『蒙求』に見える逸話をとりこんだのも自然なことでしょう。吉川氏は、『通俗三国志』にあった「遼来遼来」ということばを、おそらくより印象深くするために、「遼来々。遼来々」と変更したのでした。