脱構築
いまいち理解できていないblu3mo.iconnishio.iconcFQ2f7LRuLYP.icon基素.icon
二つは別のレイヤーの話だと思う
脱構築って結局どっちの話?blu3mo.icon
あくまでも問題意識/目的は前者(二項対立の一方を善としている事を疑うこと)だけど、後者(二項対立の分け方自体を疑うこと)が出来れば自動的に前者も達成されるから後者もやる、みたいな感じ?
社会運動は自分や他人の置かれている苦境を脱するために行われるから、必然的に前者からスタートしそう基素.icon
自分は後者の方がおもろいなと思うblu3mo.icon
ただの同じ枠組みの倫理の議論から抜け出て、新しいものが生まれる感じがあるので
(線を引いたらアイコンが回ってしまった)blu3mo.icon
読んでる本で書いてあったcFQ2f7LRuLYP.icon
二項対立パターンが支配的
デリダは、西洋文化においては二項対立的な思考パターンが支配的であることに着目した。
たとえば、白/黒、男/女、原因/結果、はじめ/終わり、明/暗、意識/無意識など、対をなす対立概念の例は無数にある。
二項対立に優劣の階層が含まれていること
デリダはさらに、それらがたんに対立しているだけではなく、一方が優れていて他方が劣っているとされたり、一方が肯定的に、他方が否定的に捉えられたりする傾向があり、そこに階層が含まれていることを指摘した。
デリダは、この「二項対立」(binary opposition)の境界を消滅させることを目指し、対立に含まれている階層に疑問を突きつけることによって、西洋的論理を批判しようとしたのである。 「階層に疑問を突きつける」ということは二項対立の一方を善としている事を疑うことだと思うcFQ2f7LRuLYP.icon
現代思想入門のp.39~から始まる「二項対立の分析」はこの例だろう 分析を進めていって二項対立の「決定不可能性を担うような第三の概念を使うこともある」(p.42)
ここまで来ると二項対立の分け方自体を疑うまで行っているように思うcFQ2f7LRuLYP.icon
この二つのどちらが目的なのかが理解できていないblu3mo.icon
私もわからない……cFQ2f7LRuLYP.icon
論者によって違いそう基素.icon
まず、デリダの脱構築と、それ以外の人の脱構築は多分違う
デリダ後に脱構築という論法を自分の分野で援用する論者が増えた?
掛谷英紀 学問とは何か:専門家・メディア・科学技術の倫理 p.62
なるほどblu3mo.icon
誤った二分法という意味で脱構築と言ってしまっていいのだろうか?基素.icon 逆にこれぐらいで使うなら脱構築とか言わないでほしい(他のコンテクストがあるのかな?と思ってしまう)w
個人的には「二項対立的な思考パターン」に疑問を持った時に「これは誤った二項対立では」と言ってるnishio.icon 脱構築的なテクスト読解において行われるのは、基本的に、対象が明示し、前提としている形而上学的、すなわち階層秩序的な二項対立図式(真/偽、真理/仮象、生/死、理念/物質、同一性/差異、など)が、当のテクストの内的矛盾によって、実のところ純粋な形では成立しないことを露呈させることである。 (ここまで読んで)あ、全然わかってねえわはるひ.icon
理解してないことを理解した
思考漏れてた??
/arplaの人に助けを求めたい気持ちblu3mo.iconcFQ2f7LRuLYP.icon デリダの脱構築がどのようなものか見たい気持ちcFQ2f7LRuLYP.iconnishio.icon 「分類や階層は幻想(あるいは傲慢?)なんだよ」みたいなことが言いたいのかなという第一印象sta.icon
脱構築というか脱構造?
構築を「構造をつくること」とすれば、構造つくるのやめようぜというパラダイムを言いたいように聞こえる
二項対立はただの構造の例(一番わかりやすいので取り上げている)?
フランスのポストモダンの哲学者デリダの用語。
同じ著者のテキストのなかに、なんらかの絶対な真理を打ち立てようとする傾向と、反対に絶対な真理を解体しようとする傾向との、2つを同時に読み取っていくことをいう。脱構築的読解とも呼ばれる。 デリダは、プラトンやフッサールなどの哲学者のテキストを詳細に読解しつつ、彼らが真理を打ち立てようと意図しながら、しかしその不可能性を自ら暴露してしまっていることを示していった(『声と現象』〈1967年〉など)。 そこには「絶対の真理とされるものは、真理ならざるものを排除することによって成り立つが、完全な排除は不可能である。なぜなら、真理は真理ならざるものと深くかかわりあい、それによって汚染されているからだ」という考えがあった。 なるほどニーチェがキリスト教批判をした(「神は死んだ」)のの延長線なのかnishio.icon その背景には、マルクス主義の運動のなかで、絶対の真理や正義の名のもとで政治党派が互いに殺し合い反対者を大量に粛正したという事情があった。「真理の名におけるテロル」はいまなお、現代思想の最大のテーマであり続けている。