目のさめるごとき絶望つひになし工場の外の真青な麦
記憶で書いてたので表記にズレはあるかもしれないですcFQ2f7LRuLYP.icon
meganii.icon(わからないのでstep by stepで考える)
「工場の外」ということは、自分はいま「工場の中」にいて、窓から外を眺めている
+1cFQ2f7LRuLYP.icon
「空白」が意図されているなら、「目のさむるごとき絶望つひになし」で切れるよね
さて、「目のさむるごとき絶望つひになし」がいまの自分にスッと入ってこない 目の覚めるような絶望?
見事なまでの徹底的な完璧な絶望かな?久住哲.icon
絶望で目が覚めるというのはあんまりしっくりこないなyosider.icon
むしろ目が曇るイメージ
「つひになし」は…
そもそもなかったの?
こちらで取ってますねcFQ2f7LRuLYP.iconなるほどmeganii.icon
「遂に」副詞なので、仮に外しても意味は通るcFQ2f7LRuLYP.icon
仮に取ると「絶望」「なし」なので、絶望がないと見ました。cFQ2f7LRuLYP.icon
終わりがなかったの?
つひもなし、ならこちらか?cFQ2f7LRuLYP.icon
潰えることもなし、を略したような感じ
これではなさそう久住哲.icon
ということは、目の覚めるような絶望なんて元からなかった
当時の工場というと、もくもくと煙を吐いていそう
なんとなく「真っ青」から、天気も良さそう
澄み渡る青い空に、麦の緑が映える描写に、工場もくもくファクトリー
雲も浮かんで、煙と同化している
煙が出ているとするなら、内心のもくもく感も出てるかも?cFQ2f7LRuLYP.icon
内に燃える煩悶の煙
自分は工場の中にいるので、煙なんてみえない、外のきれいな風景だけがみえる
(妄想)でも、一歩外に出てみれば、工場からモクモク煙が出てるし、なんなら工場が赤く燃えてるんじゃない?
(妄想)目の覚めるような絶望なんてなかったんだと外のキレイな真っ青な風景をみてるけど、実のところ真っ赤に燃えて煙を出している工場
本来であれば目の覚めるような出来事かもしれない、
「そんなものはないそんなものはない.icon」と達観したのか、むしろ絶望の真っ只中にいて「なかったこと」にしたいのか 「目のさむるごとき」とわざわざいうからには、目が覚めた?
逆に絶望を追い求めていた説
絶望に浸りたい自暴自棄
これじゃないか、と思うcFQ2f7LRuLYP.icon
「絶望」ってなんだろう、望みが絶たれる状態
「煙」って死者を暗示している?
大切な人をなくして悲しみに浸りたいのに、自分が想定する悲しみの深さが見つからないぐらい、深く深く
目が覚めてなんだ夢かって思いたい
でも、そんな「絶望」が見つかることなく、目が覚めることも叶わず、ふかくふかく絶望している
永遠に覚めない苦しみだcFQ2f7LRuLYP.icon
(妄想)外は真っ青な空の下、若い麦が青々と生い茂るという生の輝きと対比し、「工場」から立ち上がる一本の白い煙、そこから死が連想された。「工場」で区切られた明るい外側と暗い内側。内側では、目が覚め夢であってほしいと思うぐらいの「絶望」をずっと探すものの、ついには見つからず、若くして病に伏した大切な人の目も覚めない。「絶望」を探してなかったときの絶望の深淵。そんな妄想を膨らませてみました。
『青春歌集』ならちょっとニュアンスは違いそう
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2つの世界がある
目のさめるような絶望が遂に無いと考えていること
工場の外に真っ青な麦が生えていること
この二者は何を媒介にしてつながってるのか?
おそらく真っ青な麦だと思うcFQ2f7LRuLYP.icon
真っ青な麦を見てなにか悟ったのではないかと思うcFQ2f7LRuLYP.icon
像をなしていなかった思念が突然はっきり見えた、「目の覚むるごとき絶望つひになし」
劇的な、昨日が今日に変わるくらい激しい絶望は、(おそらく探していたけれど)ないのだ!
「つひに」に探索の期間を見る
なるほど、ずっと探していた絶望meganii.icon
工場のロケーション、絶望という言葉の重さから、歌い手はさほど年を取っていない若い人だと見ているcFQ2f7LRuLYP.icon
若い人ほど絶望という言葉が重いのではないか
言いすぎかも
個人的に若い頃は「劇的な」変化を求めていたので、この人も若いんじゃないかな〜と思ってるcFQ2f7LRuLYP.icon
「工場」ってもしかして戦争中における「工場」なのかもしれない。
ではなぜ真っ青な麦がそれを呼び起こしたか?
これは彼の答えであって他者がなかなか入り込めない領域にも思えるcFQ2f7LRuLYP.icon
悟りのような
工場の窓から見える真っ青な麦
若い人と青麦とは似たメタファーがありそうだcFQ2f7LRuLYP.icon
青麦に絶望というのは生と死が交差しているような……
しかし、「絶望つひになし」これ自体が「絶望」である!cFQ2f7LRuLYP.icon
「絶望がない」というより深淵の絶望
「自分にはやりたいことなんてないんだ!」と初めて気づいた時の絶望感と似ていそうcFQ2f7LRuLYP.icon
「愛する相手がいない~!」というのより、「愛せる相手なんて、いないんだ……」の方が深い哀しみになる
本人はそれに気がついていないのかもしれない
語の選び方や作歌について
三句切れ。「目のさむる絶望つひになし」が重く、「工場の外の真っ青な麦」と強くコントラストをなしている。
下の句は o音が多いcFQ2f7LRuLYP.icon
こうじょうのそとのまっさおなむぎ
「こうば」かと思ったが違うのかyosider.icon
「こうばのそとの」は6音、 「こうじょうのそと」は7音だから後者で読んでましたcFQ2f7LRuLYP.icon
「こうばのそとの」7音に見える…yosider.icon
「こうじょうのそとの」8音
おっしゃるとおりだ。今までずっと後者で読んできていたので、前者の読みは全く思いついてませんでしたcFQ2f7LRuLYP.icon
こうばのそとのまっさおなむぎ
久住哲.icon
meganii.iconさんの分析を読んでいて思ったこと
目のさめるごとき絶望つひになしが何を意味しているかについて
作中主体が「絶望だ」と感じるものはどれもいわばダラダラした中途半端なものしかないということ
cFQ2f7LRuLYP.iconさんの分析しているように、作中主体はずっと絶望が劇的なものであることを期待していた(あるいは劇的な絶望の存在を期待していた)のだが、どの絶望をみても劇的ではなかったと彼は悟ったのではないか
「目のさめるごとき絶望」というのは文学的だったり映画的・劇的だったりする
現実は文学や映画のようではない、という諦めかもしれない
「真っ青な麦」とは
目のさめるごとき絶望つひになしを象徴するものだとすれば
文学的・映画的なものと対比されるもの
自然的なもの、農業的なもの
工場も含めて「日々の生活」を象徴している、と考えられる?cFQ2f7LRuLYP.icon
+1久住哲.icon
田舎、かもしれない
工場の窓からすぐ麦が見えるくらい田舎
shiganana.icon
上の句の「ついになし」は「ついぞなかった」という意味で捉えるのが無難そう
「目のさめるごとき絶望」が来る機会は(おそらく永久に)失われた、と視点人物は捉えている
これからもまだ訪れる見込みがあるなら、ついになしとは言わないはず
「目のさめるごとき絶望」が戦争中の災禍であると仮定するなら、終戦という区切りを迎えて「戦火に巻き込まれることはついぞなかった」と言っているように読める
上記上の句を踏まえると、「工場の外の真青な麦」も意味合いが取りやすくなる
戦時下を背景に置くなら、工場は「攻撃目標足りえるもの」と読み換えられそう
工場も、その外にある青麦も健在である(壊れたり、燃えたりしていない)という風景が、自分たちは戦火に巻き込まれることがなかったということを読み手に強く実感させているのでは
読み手の感情をどう読むか
終戦を詠んだ歌だと仮定して、その感情はなんとなく安堵とかではなさそう
第二次世界大戦なら日本は敗戦国だし、最後まで徹底的に抗戦するぞ! みたいなムードもあった中で過ごしていたはず
自分とは遠い場所で戦争という大きな出来事が終わってしまったことへの虚しさみたいなものが感じ取れる
真青な麦という生命力を感じさせる表現が、逆にやるせなさを強調している?
おそらく読み手は周囲の戦争に対するムードとは裏腹に、戦争らしい出来事を直接的に経験することなく終戦を迎えている。だから「目のさめるごとき絶望つひになし」って表現になる
終戦の歌というのは作者の生年(1935)からも補強できそうcFQ2f7LRuLYP.icon
kumatako.icon
湿度高そう
絶望って湿度低そう(?)だし、「真青な麦」なら夏でしょ(?)、湿度が高そう
麦っていつの季節にどうなってるんだろう
「絶望来る…!絶望来る…!」と身構えてたら案外大きな絶望は来なかった、「マジか…来ないのか…」と外の空気を吸いに工場から出たら、瑞々しい麦がある、みたいなシーン
yosider.icon
原爆が落ちてさえ、麦は生え、本当の絶望ではない、という
工場が無事に残っている?のは疑問だが
外が見えるということは壁が壊れているのかもしれない