残酷なまでに自分に厳しくする
from 2025/12/20
文脈 俺がつくった概念を与えて天才かどうか論じてもらう
Summer498.icon
天才の話
sta.iconは伝わりづらい造語をするから天才っぽくは見えない。
多くの人が理解できる造語をつくる人のほうが天才っぽくないか?
sta.iconは確かASDだったと思うけど、ASDと非ASDとの間では共感がまったく発生しないので、これはそうともいえないwho.icon
発達の問題じゃないSummer498.icon
Summer498.iconが言っている多くの人が理解できるというのは共感の話ではない
{リストアップ}
既存の多く見られる語法に沿っていたり、
その後を構成する形態素について辞書を引いたら出てくる意味に沿っていたり、
参照可能な文献が多かったりするため、
共感していなくても調べさえすれば理解できるというもの
うーむ。ASDは定型発達者の書いた文章よりもASDの書いた文章に対して脳のネットワークがよく反応するという話をどこかで見た覚えがあるwho.icon
この主張が真かどうか確かめるには、sta.iconがASDの診断のあるアカウントが書いた文章や、ASDの物理学者が書いた文章など種々様々な文章を読んでみればいいと思うSummer498.icon
もしwho.icon自身がASDなら自分でその主張を確かめられる
Summer498.iconは高機能AS傾向と言われたがsta.iconの文章には脳のネットワークがよく反応しない
精神科医のいう「AS傾向」はASDを幼少期に発症していることを指しているわけではないと思うwho.icon
傾向にDをつけると正確じゃない(精神科医のセリフとして不適)なのでD消しといていい?Summer498.icon
失礼しました(消しといた)who.icon
あざ。このツッコミ自体がAS感あるので残しておきますSummer498.icon
自分who.iconはASDではないが、父親がASDだったなwho.icon
アタック25を毎回全問正解する異常者だった。あれは真似できない
問題文の前半の一部しか読み上げられていない段階で続きの文まで予測して即答していた
ASDは文の構成単位の認識が根本的に異なっているような感じがする。回答するタイミングが(こちらからみて)全く予測がつかない
普通は助詞までが一区切りだと思う
造語センスそのものが問題なのか、語に対する説明が問題なのか
語に対する説明を洗練させていくと、そもそも造語要らなくないかという場所に至ることが多いはず。
(言語性)知能の帯域が近い者同士て言語センスが似通ってくる現象は実際に経験としてあるwho.icon
英語のほうが正確に概念を表せるのになーと思うことがある。
この時に英語を使ってしまうと、伝わらない表現になる。
日本人に向けて話すなら日本語の中で最も近い表現を探求したほうが伝わりやすい表現になる。
テクニカル・ターム(専門技術用語)を造語の基として使ってしまうのも同様の理由でいかん。
これはあるなぁ、ITをベースにすること多しsta.icon
他人が感じ取れないものを感じ取って、他人にも伝わる表現を用いて、他人にも分かる成果を叩き出すのが「天才」だろう。
それ (他人が感じ取れないもの) を感じ取れない人から見たら、自分には感じ取れない何かを使って成果を出している人に見える。
そういう不思議な人を人は天才と呼ぶのではないか
たしかにcaki.icon
成果出すのはきついので感じ取る+表現までにしたいsta.icon
成果出すには泥臭い行動(作業も人付き合いも)が必要で、これには性能が要るが僕には足りないので難しい
ので成果出すのはできる誰かに任せて、俺はその前段階の概念つくるよ、という天才ポジションを確立したい
でも評価指標がないと評価されづらそうyosider.icon
例えば、天才的な概念の例: 進化論、相対性理論、情報理論、期待効用理論・ゲーム理論、認知的不協和、CAP定理俺がつくった概念を与えて天才かどうか論じてもらう
これらは、「他人にも伝わる表現を用いて」「他人にも分かる成果を叩き出している」
特に進化論・相対性理論は、「他人には感じ取れないものを感じ取って」の部分も満たされていて、実際に多くの人が天才と言いがち
音楽や芸術の分野で「天才」と言う語が多用されるのは、「他人には感じ取れないものを感じ取って」「他人にも伝わる表現を用いて」「他人にも分かる成果を叩き出す」の全てを満たした者しか最終的に生き残っていないからだろう。
ついでに言うと成果を出すために言語化が不要なので、「言語化し難いが誰もが良いと感じるものを作り出した人」を表現するために「センス」や「天才」という語を使う他無いような状況が生まれがち。
この考えに則ると「まあゆかりさんは天才ですから、敵を華麗にバッタバッタやっつけるわけです」は
運動神経のある天才だと思う
敵を華麗にバッタバッタやっつけるというのは、
他人には感じ取れないものを感じ取って
それに瞬時に反応し
精密に身体を動かして
他人にも分かる成果を叩き出しているから。
なお、「さっき言ってた話題のゲーム… めちゃくちゃ難しいんです…おまけに対戦相手が…『天才なら最弱装備で1位になってみろよw』とか めっちゃ煽ってくるんです…」とあるので、まあゆかりさんは天才ではないですね
人やAIからも「それって~~のことでは」的にいわれる(新規性がない)ことが多い、僕目線では「いや全然違う」だがわかりやすく説明できないsta.icon
「卍だ。」「それはAのことでは」「いや全然違う。卍だ。」というやり取りになっている。
Aとその周辺のもの(αとかℵとか)を探求して、Aと類似物を弁別できるようにした上で「Aではない」ということを確認したり、
卍だと思っているものとその周辺のもの(田とか十とか)を探索して実はAやαやℵと同じものとして説明できてしまうことを知って認識を更新する必要がある。
少なくとも、「いや全然違う」と言うなら、「Aが何であるか」と「卍が何であるか」の両方を説明してほしい。
どう違うのかの説明もほしいが、その前に先ず提示された「Aではないか」に対して「いや違う」と反論できる程にAを理解しているのかを示す意味でAを説明付ける必要がある。
その上で、卍が何であるかを説明すると、(Aの説明との差異が生じるはずなので)「いや違う」という証明になる。
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対話を諦めてるところはあると再認識したsta.icon
僕が何か書いたところでそれは作品として完成している(実際僕も100%に近いベストを尽くしてる事が多い)
それを相手やAIが見て「~~のことでは」と評していた(が、僕目線では違うんだけどなー感想)
このとき、どうやら僕は「この作品見てそこまでってことは、そこまでなんだろうな」と諦めてしまう
作品にすでにこめてるのでこれ以上の説明はきついなーと
だが単に諦めてるだけだな
Summer498.iconさんがいうとおり、説明すればいいだけなのに
「諦めている」という表現もまだ自分に対して甘い表現で、それは「単に自分の説明力の不足を相手の読解力や理解力不足に帰結させているのと何が違っているのか」という疑問が残る。Summer498.icon
(受験勉強くらいの)数学で考えると分かりやすくて、「俺は理解しているんだ!」と主張したところで、「ほな今すぐノートに証明書いてみろ。書けたら理解の証明になる。書けなかったらどんなに喚いても点は貰えない。」
英単語もわかりやすい例。「ここわかってるから飛ばそう」じゃなくて、「わかってるならさっさと全部答えても時間かからん」
何度もラリーできるといいがどちらかが諦めてしまうsta.icon
僕がそうするときもある
相手のときもある、仕事だと上司や顧客とか
無論リソースやモチベは無限ではないので仕方ない
人間と対話するとどっちが力尽きたのか分からなくなるから本と対話しようSummer498.icon
少なくとも大勢が認めている本や名著と呼ばれる本なら、諦めが発生した際に「自分が諦めたんだ」と思える。
一字一句精読して理解する、は心がけているsta.icon
一字一句精読して理解するというやり方そのものを誤解している可能性は無いか?Summer498.icon
ゆっくり丁寧に読めばいいというわけではない。すべての文章や言葉選びを疑ってかかり、その疑いが晴れなかったら文献調査を行ったりする。
残酷なまでに自分に厳しくする(常に証明を求める)と自然と相手に理解されやすい表現になるが、そうしない/あるいはできない場合は、他人から見た時に言葉を言い訳や甘えの道具として使っているように見える。
何年受験勉強を擦るんだと自分でも思うが、あの時にパキッと吹っ切れて自分に対して
「理解していると心のなかで主張したな?」
「ならば今すぐ証明しろ。問題を解け。理解しているから解かなくていいんじゃない。」
「理解しているなら解いても対した時間の無駄にならない」
といった考えを持って結果が出たので、こういう感じの考え方が出てくる
「これは絶対無理、俺のせいじゃない。確実に相手がおかしい」と思っても良いときは、複数人に対して考えを披露した結果から導こう。
全員が全員同様のやり方で反論してきたら取り敢えず、その反論の筋について考えてみると多くの人の考え方や多くの人に理解されやすい考え方を自分にインストールできる。
全員が全員異なるやり方で反論してきたら色んな考え方があるトピックなんかと思いつつ、各視点の考え方をインストールできる。
1人もしくは少数人だけが反論してきたら、その反論してきた人のほうがオカシイ可能性が見える。
それはそれで何由来なのかはジックリ観察&調査しておくと腑に落ちるようになる。
自分の考えを曝け出して思わぬ反論を食らうと心臓の辺りが冷たくなって涙が出るほどシンドいものだが、そこで相手のせいにすると「本当は自分のほうがオカシイのに修正できない」可能性が取り残される。
何度も何度も修正を重ねていくことで、思わぬ反論を食らう回数が減り、シンドい目にも合わなくなってくる。
他にも、自分は全く賛同しないが相手の思考メカニズムは多分こうなっているのだろうと解釈が走って傷つきが無くなる。
痩せろ。いっぱい食うなと言われたが、私はBMI的に痩せている(←科学的データ)し、どちらかと言うと体重が軽すぎるのが嫌(←自分の好み)なので、心配そうに言われても、アナタのためを思ってという口調で言われても、流されそうにならなかった。
あと悪口を言われた時に「自分のことかな」ではなく、「なんかコッチ向いて言っとるけど、そういう人が周りにいるんかな?」と思って後ろや横を振り返りたくなる。
ブスって言われると、私の後ろにブスが立っているのかなと思ったりする。
反発的に「俺のことじゃないはず!」と思うのではなく、本当にごく自然に「うん?このホモ・サピエンス……、何か威嚇してる?」という感じで聞こえるようになる。
声が聞こえた瞬間に「◯✕△!」みたいに聞こえて、一瞬遅れてから「なんじゃお前このブサイク!」って言ったのかなこれ?みたいに謎のラグが発生する。
そのうえで後ろにブサイクがいないかどうかを確認して、「どうも自分に向けて言ったらしい」という感じになる。
信仰心のようなものを持っていると心が揺らがなくなる。
それは胡散臭いものではなく、人間の魂の尊厳、特に自分自身の魂の尊さを心の底から信じられるかどうかという話。
ブサイクと言われたとして、尊い自分にそんな罵声を浴びせられると思っていないせいで消去法の順番が変わった。
自己不信や自己肯定感が低い状態の時に罵声を浴びせられると、消去法の順番が「まず自分ではないかを確認して……、」となる。(私は昔は被害妄想をする人間だった)
しかし、自己肯定感が高いと、自分が罵声を浴びるという可能性を仮定しなくなるので「まず周りに罵声を浴びせられた可哀想な人が居るのではないか」という確認が始まる。
「どれだけ頑張っても上手くいかない」「ガチっても上手くいかない」と言っている人に対して気になるのが、「具体的にどういう努力をしたのか?」ということ。
ぼんやりとした時間換算(毎日最低10時間を週6とか)じゃなくて、各作業をどういう考え方で行って、実際にその考え方を遂行できているのか(理想論止まりで実際は怠けているかどうか)というところが気になる
私は上手くいかない時に「自分の怠け」を感じたり「何か上手くガチれない」みたいな壁を感じることがある。
「何か上手くガチれない」の時にはとてもシンドいが、そのシンドさを理由にしてガチっても…とは思わない。
ガチれてない
例えば私は運動音痴だし、速筋を鍛える筋トレがすぐ辛くなって止めるし、絵を描く練習もシンドくなって止めるし、楽器を弾く練習もシンドくなって止めるんだけど、「どれだけ頑張っても上手くいかない」とは思えない。
「シンドくなって頑張れない」と思う。
あと、それを治す方法を欲している。
これの、いわば忍耐力の限界を上げる方法のひとつが筋トレであると思っているcaki.icon
パーソナルに行き始めのころ、トレーナーが口癖のようにあと2回だけ頑張れるか?みたいに言っていた
「頑張れ」じゃなくて「頑張れるか?」なのめっちゃいいなSummer498.icon
筋トレしていて、限界だってなった時に選択肢がうまれる
あと2回だけやるか
やめるか
あと2回だけやる、をやれるという成功を積み重ねていくと、限界だけどもうちょいならやれるって思えるようになってくる
これのために限界の許容範囲がちょっとずつ広がっていく
その考え方だと物理的な限界を神経的な辛さの限界が超えてしまって筋断裂等の負傷の恐れがないか?Summer498.icon
これはかなりある、そのために死亡事故などが起きるのでやりすぎ注意と言われているcaki.icon
Summer498.iconは辛さと「本当に無理」の違いがわからずに、本気で筋トレをできない。
筋トレによる負傷ってめっちゃ痛そうだから負傷したくない……。
トレーナーをつけると、トレーナーが本当に無理な人がある程度見てわかるらしく、やや安全caki.icon
あと24hジムのような他の筋トレ人がいるところでやるとやばいとき助けてもらえる
筋トレ勢の共通認識としてやばそうな人がいたら助けるみたいなのがある
神経が発するシンドさなのか、肉体が物理的におかしな挙動をしているのかを区別して考えるのが良いだろうと仮説を立てて筋トレしたくなってきているSummer498.icon
いいはなしcaki.icon
個人的にはSummer498.iconさんは性格的に向いてそうと思っているcaki.icon
うん。他人のことも自分のことも基本的に信用できないので、信用する身体感覚基準を設定して、それに従って動くのが一番しっくり来る
自分のことも信用できないというのは怠けるというニュアンスもあるが、やると決めた時に身体を守れるかという視点でも信用できないというニュアンスも含む
「辛い感覚がするのは身体が言い訳している」と考えて身体が壊れるまでやるのではないかという信用感のなさから、辛さの先に踏み出せない。
その上で、本当に「どれだけ頑張っても上手くいかない」「ガチっても上手くいかない」ということがあるんだろうか。
ある/ないで言えばあると思う。
四肢欠損していないものの身体の動作に障害がある人を考えれば、「どれだけ頑張っても身体の作りのせいで上手くいかない」ということは想像つく。
そこから派生して、認知的能力に関しても「どれだけ頑張っても上手くいかない」ということが起こりうるのではないかと想像できる。
ただ、本当にそうなっている人の振る舞いと、「どれだけ頑張っても上手くいかないんだー!」と言っている人の振る舞いはなんか違う感じがする。
真に「どれだけ頑張っても上手くいかない」っていうのは、自分への言い訳抜きに、絶対にこれならいける。この努力を地獄の閻魔に提出して審判を受けても私に分がある。何もやましいことはない。と思えるくらい頑張って尚「何か上手くいかんな」と思えた時だろう
そういう時って「わお。私にはコレってツクヅク向いてないじゃん」みたいな感じで清々しい気持ちになる。
これも「証明しろ」の延長線上にあるんだよね。
「俺には向いてない」ならそのことを証明しろよと。