本歌取り
和歌や連歌で,よく知られている古歌(本歌)の言葉や趣向をかりて新しい歌をつくること。この技巧は,『新古今和歌集』の時代にとくに愛用された。 ◇たとえば,藤原定家は『万葉集』にある
掛詞以上に文脈・意味を重層化させる技法
例
古今和歌集は「花たちばなの香から、昔慣れ親しんだ人の袖の香を思い出す」。
新古今はこれを下敷きに、より婉曲的に表現している
直接香をかぐのではなく、「にほふあたり」
思い出すのも、現実の中ではなくうたたねの夢の中
季節は春→秋へと変わっている
春の(おそらく花ざかりの)景色がまったく面影もない。枯れた葦に秋風が吹く……
詞はふるきをしたひ、心は新しきをもとめ、をよばぬたかき姿をねがひて、寛平以往の哥にならはゞ、をのづからよろしき事も、などか侍ざらん。ふるきを戀ねがふにとりて、昔の哥の詞をあらためずよみすへたるを、すなはち本哥とすと申也。
詞は古きを慕い、心は新しきを求め、及び難い立派な姿を願って、寛平時代からの後の歌にならうのなら、自ずと良いことも、ないことがございましょうか。
寛平は年号。大体古今和歌集に収録されている頃の歌のこと 古い姿ををこいねがうにつけて、昔の歌の詞を改変せず、(歌の中に)詠み据えるを、すなわち、「本歌とする」と呼ぶのです。
彼本哥を思ふに、たとへば五七五の七五の字をさながらをき、七ゝの字をおなじくつゞけつれば、新しき哥に聞なれぬ所ぞ侍る。五七の句は、やうによりてさるべきにや侍らん。たとへば、礒のかみふるき都、時鳥鳴やさ月、久かたのあまのかぐ山、玉ほこの道ゆき人、など申ことは、いくたびもこれをよまでは、哥いでくべからず。年の内に春はきにけり、袖ひぢてむすびし水、月やあらぬ春や昔の、さくらちる木の下かぜ、などは、よむべからずとぞをしへ侍し。
この「本歌」について考えますと、たとえば五七五の後半、七五を古歌そのまま置き、七七の字を同じように古歌のように続けたのならば、新しい歌とは聞こえないところもございます。また、五七の句は、場合によっては避けた方がよろしいかと存じます。たとえば、「いそのかみふるきみやこ」、「ほととぎすなくやさつき」「ひさかたのあまのかぐやま」「たまほこのみちゆき人」など申します句は、幾たびもこの句を詠まないでは、とうてい歌が出来るものではございません。「としのうちにはるはきにけり」、「そでひぢてむすびしみず」、「つきやあらぬはるやむかしの」、「さくらちるこのしたかぜ」などは、詠んではならぬと、(亡父俊成)は教えておりました。