書記行為の民主化
(/komoji-od/『シラバス論』.icon pp.319–321)
〈知識〉と「思考力・判断力・表現力」などとの関係
つまり、人々が「多様」に語りはじめるのは、文字の「知性」化に基づいています。知性や知識の画一性は多様性の反対語ではない。むしろ知性は、多様性の根拠なのです。 文字や段落のコピー、移動などは、従来頭の中でイメージとしてしかできないものでした。そのため、文章の最初を紙に書くときには、すでに数行先、数ページ先の内容を脳内的な構想力として先取りする能力が必要でした。書き出しに失敗するととんでもない手間がかかったからです。 文字や段落の前後(という空間的な先後関係)は、実際には紙に手書き文字で書き込んでいく制約であって、脳内(構想力)では自由なひらめきが空間的な前後と関係なく浮かんでいるわけです。この前後に縛られない自由なひらめきと手書き文字の整序だった前後を結びつけているものは、まさに〈文章力〉という技能でした。推敲すればするほど原稿用紙は汚れ、消しゴムでその紙が破れもしたわけです。最後には自分で書き込んだ文字も読めなくなっていった。 〈推敲〉とは脳内の時間・空間にとらわれない自由なプロセスを、でき得る限り紙と手書き文字との関係に落としこむ能力なわけです。 したがって、推敲を重ねれば重ねるほど、構想力と紙との、あるいは手書き文字との対立は深刻なものとなっていました。ワープロ以前の時代に〈書ける人〉とは、ごく少数のエリートでしかなかったわけです。作家は、技能主義的な職人であったわけです。その限りで、〈書くこと〉は〈人物論〉に収斂したのです。 しかし今では、自由なひらめきと前後を整序する書記行為との間にこういった異質で深刻な対立関係は消え、ひらめきはそのまま表出可能なものとなり、後から自由に「コピー」、「貼り付け」、「上書き」ができるようになりました。 その意味で知識は、「思考力・判断力・表現力」「主体性」などと対立しているのではなくて、それらを担っているわけです。知識の強度が高まれば高まるほど適用の強度も高まる。「思考力・判断力・表現力」「主体性」「創造性」などが衰退しているのだとしたら知識の強度が不足しているのが原因であって、その衰退は「自己表現力」授業、「アクティブ・ラーニング」授業を導入することによって解決などしない。 オレオレ詐欺や振り込め詐欺に専念している若者たちは、「思考力・判断力・表現力」「主体性」が充分あるわけです。赤の他人にお金を出させるまでに喚起力のある「思考力・判断力・表現力」「主体性」 ——もっと文科省が好きな言葉を上げれば、「多様性」「協働性」など——があるわけですから。 何を学ぶのか、ということと切り離されたコンピテンシーモデルとしての「思考力・判断力・表現力」「主体性」に拘泥すると、こういったオレオレ詐欺や振り込め詐欺の能力とそれらの「真の」意味とを区別することが難しくなります。道徳、情操性、社会性、人間性というのも、同じようにコンピテンシーモデルの一種ですから、知識の内容(オブジェクト)と切り離してしまうと、好き勝手な思い付きの断片を事例主義的に集めて、研修屋みたいな授業を学校教育の中でやってしまうことになるわけです。これは〈知識〉の相対化ではなくて、軽薄化でしかありません。現にその種の授業を担っている先生たちは、片手間にしか、あるいは経験主義的にしか授業準備できないわけです。