日本の暦
ニッポニカと暦wikiの記述を元にざくざく
暦の始まり
欽明天皇14年 (553) 6月に、百済から暦博士が来朝した
日本書紀に記載。書類上に残る最初の記録
これ以前はどういう暦だったか不明
暦博士の名前は「固徳王保孫」
正史において初めて暦が採用されたのは持統天皇4年 (690) 11月
元嘉・儀鳳という中国暦が行われたらしい
大衍暦 (763~859)
天平宝字7年 (763) 8月より大衍暦
続日本紀に記載。以後およそ100年にわたって使用
途中遣唐使が五紀暦を持ち帰るも習学者なし
宣明暦 (859~1684)
貞観1年 (859) に長慶宣明暦経が渤海から渡来
いわゆる宣明暦
貞観3年に大春日朝臣真野麻呂の申請により正式採用
以後823年使用され続ける
暦法の計算上、後代になればなるほどズレが広がってきてしまった
太陽年は (365.24464 - 365.2422) × 800 ≒ 2、すなわち800年使い続けると2日ほどのずれとなります。渋川春海が「宣明暦、天に後る二日なる」と述べているのはこの点です。
暦Wiki/宣明暦
江戸時代になると誤差が2日ほど出ている
なので平安~江戸初期までの暦を知りたい場面では宣明暦を参照すればいいってことだなcFQ2f7LRuLYP.icon*3
貞享暦 (1684~1754)
貞享1年 (1684) 渋川春海の作成した貞享暦が採用される
三度の改暦の上奏を経ている
この辺は天地明察が詳しい
(らしいcFQ2f7LRuLYP.icon)
これが日本史上初の日本独自の暦
宝暦暦 (1755~1797)
その後細かい修正が行われる
天文学に興味のあった徳川吉宗は西洋天文学を導入した改暦を意図した
この辺は江戸壊滅の危機!すい星激突の恐怖が詳しい(?)
ご覧になった方ご意見求むcFQ2f7LRuLYP.icon
西川如見の子、正休を天文方に据える
春海の子渋川則休とともに、陰陽頭土御門泰邦と改暦の相談を進めた
しかし下記の事情や土御門泰邦との不和が重なり、正休は退けられることに
寛延3年(1750)
桜町天皇の崩御
渋川則休の急死
同4年 (1751)
吉宗の死去
宝暦5年 (1755) に土御門泰邦により宝暦甲戌元暦 (宝暦暦) が施行されるも、宝暦13年 (1763) に日食が暦に記載されなかったという大ミスが発覚
貞享暦をわずかに補正したものの、理論的には変化がない
このミスを受けて、明和元年 (1764) には山路主住、佐々木文次郎 (吉田秀長) を天文方に任じさらなる改暦へ
明和8年 (1771) より修正宝暦甲戌元暦施行
寛政暦