指窮於爲薪
指窮於爲薪、火傳也、不知其盡也、
金谷治による注
難解な断章で、読み方も意味も落ちつかない。火を精神(生命の本質)にたとえ、薪を個々の肉体にたとえたものとして、養生に関連づけて解釈することもできるが(例えば林雲銘『荘子因』の説)、疑問である。 訳
指は薪(まき)を為(すす、前)むるに窮するも、火は伝わる。其の尽くるを知らざるなり。 指で薪をおしすすめ〔て火をたくが、それをす〕ることができなくなっても、火はつづいていく。火がまったく無くなることは決してないものだ。
みんなも意味を考えてみよう!(クイズ番組風)
クソデカ古典にもこんな断章あるのかと吃驚した文イタロー.icon
あるあるcFQ2f7LRuLYP.icon
イタロー.icon
指を薪と爲すこと窮むれば、火傳わりて、其の盡くるを知らざるなり。
指を薪に近づけると、火が燃え移って、火が尽きない。(危険)
迷訳になってしまった
道元だか他の仏典だかに、薪の話があった(と聞いた)気がする(識者求ム)
ちょっと禅問答じみてる
ちょっと調べて『正法眼蔵』が出てきたcFQ2f7LRuLYP.icon たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。
薪は灰になる(わかる)灰はもどって薪になるわけではない(わかる)このようにあるのを、「灰は後」「薪は先」とみなしてはいけない(わからない)
しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際斷せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり。かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。 流転の話をしているのか…?cFQ2f7LRuLYP.icon
両方難しすぎて、めちゃくちゃ深いことをいってるようにみえるイタロー.icon
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新釈漢文大系だと
指は薪を為るに窮し、火の傳わるや、其の盡くるを知らず。
指で薪を取るには限界があるが、火の伝播は果てしなく続く。