他人のことばかり気にするのをやめた過程の言語化
他人のことばかり気にするのをやめた過程の言語化
他人のことばかり気にするのをある程度止めたが、どうやって止めたのかいまいち言語化できない気がするSummer498.icon やってみよう
元々優位な状態だったのでマウンティング傾向があった
私学に受験で入ると推薦で入った人より明らかに学力に差が出る
全力でゲーム作りしたが、他の人の方がよほど良い作品を作っていた
長期戦の計画まで立てて、心身ボロボロにしてまで打ち込んで負けるとなかなか身にしみる
おまけにそれらを作ったやつらがマヌケそうな面してるわけで
心の方がボロボロになったから開発効率が落ちた説はあるが、それは別の話
よほど良い作品は主観的
自分の作品の良くないところ (改善できる点) は自分が一番良く知っている状態で他の人の作品を見るからよほど良い作品に見える
↑人は見かけによらないので取り敢えず良い所があればすぐ XX の人として覚えて尊敬するようになった
卒研以降比較が無意味になる
忙しすぎる
人のことを気にしてあーだこーだ言う時間がない
比べられなくなってくる
研究に入ってくると誰も同じことをしないので比較のしようがない
本当に止めたのか?
怪しい
たまにコイツに負けるなんて……!って思うことはある
他人のことばかり気にするのを止めた過程の言語化nishio.icon
多分「子供の時に保護者からの評価を気にする」は自然なことだと思う
その後、それが無意識に一般化されて「先生からの評価を気にする」「会社の上司からの評価を気にする」になる
これのさらに一般化されたやつが「他人のことを気にする」だと思う
で、僕個人のそこからの脱却が何で起きたか
まず「上司からの評価を気にする」というモードがあり、当時の上司から評価のフィードバックがなかったので迷走した
その迷走の結果としてなぜかCG作りを始めて、それが会社とまったく無関係なコンテストに入賞(ポジティブな評価)された
この時に「あ、誰が僕を評価するのかは僕が選んで良いんだ」というような感じの気づきがあったと思う
子供の時は親や先生を選ぶことができないと思っている。
その感覚を大学や会社まで引きずってしまったりする。
しかし成長と共にだんだんと「選べる」状況が増えている
今振り返って考えるとこの入賞はそれで食べていけるわけでもなんでもないんで収入源の安定化という意味ではあんまり寄与してないんだけどね
確実にこのタイミングで所属企業を単一の評価者とは捉えなくなった
自覚的に「まず社外での評価を高めて、それを後から社内での評価に変換する」という選択肢を使うようになった
その結果「所属企業からの評価が多少上下してもあんまり問題ではない」という気持ちになった結果、会社に対して強気の交渉をするようになった、これが本人の予想よりもポジティブな評価につながった
未踏社団の理事就任の時に究極的には会社を辞めれば良いという気持ちで話をしたら、あっさり業務時間で理事をやっていいということになり拍子抜けした
その結果として、その後未踏ジュニアの創設メンバーになり、そのプロジェクトがいくつもの組織から合計数千万のスポンサーシップを受けるようになった
これを社内向けに「社会的に価値があることをやっているのだ」というエビデンスに使っている
大学のカリグラフィー講義が後にアップルのレタリングを生んだ、みたいな話だ(うろ覚え)cFQ2f7LRuLYP.icon
おもしろいinajob.iconRR.icon
会社での評価の話、色々なケースが有りそうinajob.icon
自分の場合は、社内のハッカソンとかに出たりしていると、上司以外の人からのポジティブなフィードバックがたくさん得られる経験をしたので、会社からの評価というのが上司以外もあるのだなと感じることが出来た 即座に給与に影響はないが、面白い仕事をもらえたりするようになった
会社でこういう体験ができたゆえに、あまり会社の外での活動には至っていないかも
会社が十分大きいと「社内の社会」だけで個人には十分な量の社会的インタラクションが発生する的な話nishio.icon
+1inajob.icon
在宅勤務+育児で社内と社外のアクセスのコストがおなじになったので、最近は社外に対する活動が増えているような気がする
この辺はまだ言語化出来なそう