上代特殊仮名遣
上代文献には、歴史的仮名遣では区別しない音節(具体的には、コ・ソ・ト・ノ・モ・ロ・ヨ・〈ホ〉、キ・ヒ・ミ、ケ・ヘ・メおよびその濁音)を示す万葉仮名が二通りにはっきりと書き分けられていることが知られている。 二種類のうち、一方を甲類、もう一方を乙類と呼び区別する(橋本)。例えば、後世の「き」にあたる万葉仮名は支・吉・岐・来・棄などの漢字が一類をなし、「秋」や「君」「時」「聞く」の「き」がこれにあたる。これをキ甲類と呼ぶ。己・紀・記・忌・氣などは別の一類をなし、「霧」「岸」「月」「木」などの「き」がこれにあたる。これをキ乙類と呼ぶ。
イ段・エ段の甲乙の区別は動詞の活用と関係があり、四段活用では連用形にイ段甲類が、命令形にエ段甲類が、已然形にエ段乙類が出現する。上一段活用ではイ段甲類が、上二段活用ではイ段乙類が、下二段活用ではエ段乙類が出現する。
こうした甲乙の区別は、一々の単語ごとに習慣的に記憶されて使い分けられたものではなく、何らかの音韻の区別によると考えられている。すなわち、上代日本語にはいろは47字+濁音20の67音でなく、それより20音多い87音の区別があった。後世に存在しない音韻がどのように区別されていたかは諸説があって定論がないが、例えば母音が8種類あったなどと推定することが可能である。
8世紀後半になると、まずオ段のモから区別が失われ、他のオ段へも広がった。このような中間的な状態は、仏足石歌・宣命・正倉院万葉仮名文書・および木簡資料などに見られる。平安時代になると、ほとんどの区別は消滅したが、コの区別は9世紀前半まで、エの区別は10世紀前半まで残った。