フュージョン
フュージョン(jazz fusion、fusion)は、1960年代後半から1970年代初頭に発生した、ジャズを基調にロックやラテン音楽、時にはクラシック音楽などを融合させた音楽のジャンルである[3]。ジャズの派生ジャンルとされている[注釈 1]。
電気楽器をジャズに導入する試みは、 60年代後半から開始された。マイルス・デイヴィス[4]の『イン・ア・サイレント・ウェイ』(1969年)と『ビッチェズ・ブリュー』[5]。マイルスのアルバムとしては(1970年)は、初期のエレクトリック・ジャズの代表作である。電気楽器を使用したジャズは、当初はジャズ・ロック[注釈 2]やエレクトリック・ジャズと呼ばれることが多かった。それ以前の1966年に、ラリー・コリエル率いるザ・フリー・スピリッツのアルバムが発表されているが、知名度はきわめて低かった6。また、ギル・メレ[7]の『トムVI』(1967年)も、最も初期のエレクトリック・ジャズの1枚ではないかという説もある。さらに1970年代(1972年ごろ)に入ると、ソウル・ミュージックやラテン音楽の要素を取り入れ、クロスオーバー[8]と呼ばれるようになる。同時期にはクラシック音楽を題材にした曲もあり、異例のセールスを記録したデオダート[9]の『ツァラトゥストラはかく語りき』[注釈 3](R.シュトラウス)や、ボブ・ジェームスの『はげ山の一夜』(M.ムソルグスキー)等がある。またジャン=リュック・ポンティのアルバムも話題になった。1970年代半ばになり、クロスオーバーをさらに商業化したサウンドが現れるようになると、他のジャンルと融合した音楽という意味で、それらの音楽をフュージョンと呼ぶようになった。一方で、フュージョンは同時代の「ディスコ」や「産業ロック」と同じように、商業主義的だとして批判されることがあった。1977年ごろにさかんにNHK-FM放送を中心とした日本のFM局でオンエアされたミュージシャンには、リー・リトナー、ラリー・カールトン[注釈 4]、アル・ディ・メオラ、高中正義らがいた。1978年にはチャック・マンジョーネの「フィールズ・ソー・グッド」[10]が、全米でトップ5に入る大ヒットとなった。アール・クルーがインスト・カバーした「ダンス・ウィズ・ミー」(オリジナルはオーリアンズ)は、天気情報番組のバックでさかんにオンエアされた。1990年代から現在にかけては、フュージョンを大衆に聞きやすくしたスムーズジャズのジャンルに移行している。フュージョンの曲の多くは、ボーカル無しのインストゥルメンタルであったため、BGMとして使用しやすく、テレビ・ラジオ番組で、フュージョンの楽曲がさかんに使用された。