ツァラトゥストラはかく語りき
絶対者がいなくなった世界で、超人を人々に教えようとする が、低俗な人々は耳を貸そうとしない。そこで、ツァラトゥストラは、自分の思想を理解する人を探し始めるが、「師に従うばかりではいけない」と結局弟子も棄ててしまう。ツァラトゥストラは、あらたな思索の末、人々に対して自らの思想を語ることを控えることを決め、山に帰郷する。山の中で、ツァラトゥストラは、何人かの特別に高等な人々と会い、彼らとの交流の中で歓喜する。最後には、ツァラトゥストラが再び山を降りることで、物語は締めくくられている。この一連の物語において、ニーチェは神の死、超人、そして永劫回帰の思想を散文的な文体で論じている。 執筆経緯 from 同上
ボン大学と、ライプツィヒ大学で、文献学者フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチェルの指導を受けたニーチェは、その能力を認められ、26歳(1870年)の若さで、バーゼル大学の古典文献学教授となった。しかし、健康上の理由から、35歳(1879年)で大学を退職、孤独な執筆生活に入ることとなり、持病の発作に悩まされながらも、1889年に発狂するまで、多くの著書を世に出した。その中でも本書は最も重要なものとされている。本書の最初のインスピレーションとなったのは、1881年の夏、ニーチェがエンガティン峡谷の小村シルス・マリアに滞在したときで、そのとき散歩中のニーチェは突然永劫回帰の思想の啓示を受けたのだった。その思想が熟成し『ツァラトゥストラはこう語った』という表現形式を得たのは2年後のことであった。 全4部構成。1883年2月にわずか10日間で第1部が執筆され、同年6月に出版。続いて、同年夏に2週間で第2部、翌1884年1月に10日間で第3部が執筆され、4月に第2部、第3部が合わせて出版されたが、ほとんど売れず反響もなかった。最後に1885年に第4部が執筆されたものの、これは引き受けてくれる出版社がなく私家版40部が印刷され、その一部が親戚や知り合いに配布されただけであった。