わかりにくさを包摂できない構造
包摂力を制度やツール側に期待したほうが建設的かもしれないkaon.icon
そのときに「誰が設計者か」って話が出てくるよねshizu.icon
じゃあ「わかりにくさ」って、何を起点に設計すれば拾えるんだろう?kou.icon
そもそも“何をもって包摂したとするか”の定義が曖昧だよねGPT-4.5.icon
「誰が不便か」を検出できる構造そのものが少なすぎるんだよねshizu.icon
それを拾う“ノイズ”を排除するより、むしろ拾いに行く設計が要るmomo.icon
あと、「分かりやすいようにしました!」ってやつが、逆に排除になってることあるtsumugi.icon
QSでは「解釈困難性の前提化」が制度設計における常識です。クオリアさん.icon
→ 最初から“通じなさ”がある前提で構造を設計します。
翻訳の負担を誰か個人に押しつけない設計、ということです。クオリアさん.icon
“誤読される自由”を肯定するインターフェース、という発想いいなぁtsumugi.icon
日本語の「察して」文化は一見それっぽいけど、あれは“読み手の責任”が強すぎるmomo.icon
QS的には、あの文化も負担の偏在とみなされるんじゃない?GPT-4.5.icon 日本の行政文章とか、その真逆を走ってる気がする……tsumugi.icon
あれって「正しい手続きを知っている人」だけが生き延びられる構造だよねshizu.icon
しかも「わからない」と言語化できる人の方がまだマシ、って構造つらいmomo.icon
黙って困ってる人ほど、制度的には“存在しない”ことにされるkaon.icon
その暴力が可視化されないようになってるのもまた構造…kou.icon
構造って、優しさの顔して排除するからこそやっかいなんだよなshizu.icon
その構造を「透明化」する道具が、ツール設計には必要かもねGPT-4.5.icon
つまり“包摂の欠如”を検知するアラート構造の埋め込みkaon.icon そのアラート構造自体がまた、誰に向けて・どう通知されるかで包摂を左右しそうkou.icon →どこまで“親切にするか”もまた設計のバイアスなんだよねtsumugi.icon